カテゴリーアーカイブ:政治の役割

アメリカ政治、国会不信

2014年9月22日   岡本全勝

アメリカは、中間選挙の年です。日本では、イギリス、フランス、アメリカなどを民主主義の先進国、お手本になる良い国として紹介することが多いです。しかし、どこの国でも、人間の基本は変わりません。政治や国会、選挙は、各人の欲望と理想が交錯し、戦いの場です。教科書に書いてあるようには、いきません。
東京財団が、現代アメリカ政治を、継続的に報告しています(2014年アメリカ中間選挙)。「強烈な現職不信を背景とする連邦議会上院選挙の動向」から。
・・アメリカ合衆国連邦議会の仕事ぶりに対する近年の支持率は、10%台という空前の低さである。そういう中でも、連邦議会下院は、区割り操作のお蔭で、議員の再選が安泰な選挙区が多い。これに対して連邦議会上院は、州が一つの選挙区なので、国民のムードの逆風をもろに受けることになる。このため2014年中間選挙では、多数の現職上院議員の再選が危ういか、または引退に追い込まれている。6年任期の連邦上院議員は、2年おきに全体の約3分の1が改選されるが、2014年が改選期の議員は民主党が多いため、多数党の座の維持が危ぶまれている。
連邦議会への信頼・不信に関する世論調査データをみる際のポイントは、連邦議会全体への評価と、地元選出の議員への評価を分けて捉えることである。一般的に、地域の利益代表としての地元議員は支持、連邦議会全体は不支持という二重構造がみられる。
ギャラップの調査(8月公表)では、連邦議会下院の地元議員が再選に値するという回答は、2014年については50%であるのに対し、連邦議会議員全般については19%にとどまり、地元議員と比べて31ポイントも低い。
2014年中間選挙の特色は、本来は有権者に愛されているはずの地元議員への不信感が、平年値を大きく超えるレベルに達していることだ。上述のギャラップ調査の50%という数字は、1992年以降では2010年の46%、1992年の48%に次ぐ低さである・・

国内政治と外交と

2014年9月7日   岡本全勝

9月6日の読売新聞が、アメリカで、オバマ米大統領が指名した大使人事の承認が議会で進まず、46か国もの大使が承認待ちのまま不在となっていることを紹介しています。
国際機関の大使や特使らを含めると、上院で大使級人事の承認待ちは、61人です。一部の人は、外交に縁のない大統領の友人や政治資金提供者を政治任命したものですが、そうでない職業外交官も40人います。1年以上待機中の人もいて、平均で7か月だそうです。フランス、韓国、トルコにも、アメリカ大使がいません。日本のケネディ大使が早期に承認されたのは例外です。
国内での政治の争いが、外交(外交官の任命)に及んでいるのです。制度的には、大統領と議会がともに国民によって選ばれる二元制、外交官の任命が議会承認にかかるという仕組みが、このような混乱を生んでいます。もちろん、大統領の政治力(世論支持を含む)や議会の「良識」によって、通常は顕在化しないのでしょうが。

覇権国家イギリスを作った仕組み、12

2014年9月6日   岡本全勝

近藤和彦著『イギリス誌10講』p143に、次のようなことが書かれています。
18世紀のイギリスには、2人の国務大臣(secretary of state)がいたのだそうです。2人で職務を分担していました。2人だけです。1782年に、内務大臣と外務大臣とに、職務を明確に分担しました。
アメリカの外務大臣が今も、国務長官(secretary of state)と呼ばれているのは、独立前のイギリス本国の官制の名残です。国務大臣と訳すのか国務長官と訳すのかは、日本での慣用の違いです。

覇権国家イギリスを作った仕組み、11。本当に飢えた人は暴動を起こす元気もない

2014年9月2日   岡本全勝

近藤和彦著『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』、18世紀イギリスでしばしば起きた食糧一揆が、民衆による「法の代執行」である点を解説するくだり(p163~)から。
・・食糧一揆といえば、飢え、自暴自棄になった群衆が業者や倉庫を襲う「暴動」という紋切り型のイメージがあるが、しかし、18世紀の食糧一揆は餓死しそうな貧窮から生じたのではない。そもそも本当の飢餓状態にあれば、わたしたちもニュース映像で見ているとおり、病み、放心して横になるか、せいぜい祈るしかないだろう。私たちの注目している一揆勢は元気で、憤り、自ら集団的に行動する「正当性の拠りどころ」をもっていたように見える。一面で統治権力のありかた、地主・商工業者などの姿勢、あるいは世論のありかたも重要であるが、同時に民衆のおかれた生活条件や一揆の規律、〈制裁の儀礼〉としての性格に注目する必要もある・・

覇権国家イギリスを作った仕組み、10。エリート文化と民衆文化

2014年8月31日   岡本全勝

近藤和彦先生の続きです。『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』(2014年、ちくま学芸文庫)も、興味深い本でした。民衆文化を扱っているのですが、次のような概念を建てておられます(p65~)。
人類学者のR・レドフィールドの対概念「大きな伝統」と「小さな伝統」を援用して、社会の文化を2つに分類します。「大きな伝統」は、エリート文化で、キリスト教会や古典のように、制度として受け継がれ、教育によって継承され、聖俗の支配者・知識人によってになわれた。こうした公式で国家的な世界を、ロシアのM・バフーチンは「第一の世界」と呼んだ。
これに対し、「小さな伝統」は、民衆文化である。ローカルな民族的常習行為のさまざまなレパートリからなり、生活の場において公衆のただなかでパフォーマンスとして演じられ、受け継がれた。教科書や楽譜はない。民衆といってもさまざまなので一様ではない。バフーチンによれば、これは公式なものの向こう側にあった「第二の世界」であった。

社会の思想を議論する際に、私は、この観点が気になっていました。大学で講義される哲学や書物になっている社会思想は、多くが欧米の輸入であり、それは日本国民の多くがふだん考えている「思想」とは、大きく異なったものでしょう。
「現代日本の思想」という題で、議論をしたり本を書くならば、大学での難しい輸入理論だけでなく、国民が共有している思想を取り上げるべきだと思うのですが。例えば宗教観などは、庶民の思想の大きな部分を占めると思います。そのほかにも、政治参加意識、公共への考え方、家族のあり方、会社への帰属意識など。エリート社会思想と民衆社会思想の2つがあるのでしょう。久野収、鶴見俊輔著『現代日本の思想』(1956年、岩波新書)などは、日本の思想に取り組んだ試みだと思いますが、まだ庶民の思想を中心にしていません。
これは、学校で習う音楽にも、当てはまると思います。西洋音楽とそれを輸入した音楽を教えてもらいますが、田舎では秋祭りなどのお囃子や歌謡曲が、生活に根ざした音楽です。カラオケが、国民にもっとも受け入れられている音楽でしょう。
西欧から輸入した文化と、古くから日本にある文化の2つの流れがあり、さらに大学や学校で教える文化と民衆の生活文化との2つがある、そしてそれが共存していると考えると良いのでしょう。