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社会

コロナによる非日常、幸せの二極化

6月7日の読売新聞「withコロナの日常」、前野隆司・慶應大学教授の「つながり 心の生活必需品」から。

・・・どうすれば私たちの幸福感は高まるのか。「ロボットを通じて人間を理解する」のではなく、人間の心が幸せを感じるメカニズムを直接的に解き明かし、一人でも多くの人に幸福を感じてほしいと考えるようになりました。
では、どんなメカニズムなのでしょう。一端を明かすと、収入や財産、社会的地位といった周囲と比べやすい指標の増加・上昇による幸福感は、一過性で長続きしないことが判明しています。一方、心と体、それに社会が良い状態であることで得た幸福感は、持続性が高い。具体的には、他者とのつながり、健康、愛情、自由、環境などです。これらは周りと比較しにくい特性があります。
前者を「地位財」、後者を「非地位財」による幸福感と呼んでいます。地位財だけではダメで、かといって非地位財さえあれば解決する話でもありません。両者が車の両輪のごとくバランスの取れていることが、高い幸福感を得るための前提として、とても大切です・・・

・・・世界が新型コロナウイルスとの闘いに苦しむ今、人びとの間に〈幸せの二極化〉が起きている可能性があります。想定外・非日常の事態が起きると、幸福を感じる人と、感じられない人の格差が、より開きやすくなるのではと危惧します。
幸福感の高い人は元来、物事を俯瞰ふかん的に見ることができ、利他的で、多様な仲間がいる傾向が強い。コロナ禍のさなかでも視野を広く持ち、みんなで助け合おうとします。幸福感がさらに高まることもあるでしょう。
逆に、幸せでない人は、悲観的であったり視野が狭かったりするので、不安が過度に助長され、なおさら身動きが取れなくなる。つながりも少なく、創造性が発揮しにくい傾向もある。急激な変化の中でどうしていいかわからなくなってしまいます。

花王や日本たばこ産業(JT)、サントリーなど国内の企業十数社の社員や経営者にお声がけして17年秋につくった「みんなで幸せでい続ける経営研究会」がゴールデンウィークの前後、緊急事態宣言以降の幸福度や働き方の変化について、会員・非会員計450人に緊急アンケートを行いました。
そこで寄せられた回答も「とても幸せになった」から「とても不幸になった」まで、やはり二極に分かれていました。「幸せになった」という人たちは、リモートワークの浸透で家族と過ごせる時間が増えたことが影響しているようです・・・

世界をリードする教育研究を

6月8日の日経新聞教育欄、大西隆・東大名誉教授の「国立大学の使命 教育・研究で世界をリード 日本の優位性見極め/政治と大学人が対話を」から。詳しくは、原文をお読みください。

・・・筆者には、政治やその有力なバックボーンとしての産業界と国立大学の対話不足という現実があるように思えてならない。少子化が進み、英語が教育・研究言語としてさらに普及して優秀な学生の国際流動性が次第に増している現実のもとで、国立大学の多くは、現在のままの運営を続けていけばいいとは考えていない。

日本が比較優位に立つ分野を見極め、国際競争力のある、つまり教育と研究で世界をリードする大学へと改革していかなければ、日本の将来も大学の将来も暗いと考える学長や大学人は少なくない。さらに付言すれば、筆者のような工学分野では、とりわけ情報化をふんだんに取り入れたモノづくりへの応用が、日本が世界から一目置かれており、世界の若者が日本で学びたいと考えている分野だと思っている。

既に実績も上がっている。3月まで学長を務めた豊橋技術科学大学でも全学生の14%程度が留学生であった。また、表のように、全分野で世界に約400万人いる留学生の中で、日本着の留学生は日本発の4.4倍であり、英語圏に次ぐ人気国である。
とはいえ絶対数はまだまだ少ない。日本は自由貿易の重要さを標榜するのであるから、それを支える国際的な人材育成を日本の得意分野で進めることが国益にかなう。この点を日本の大学は重視すべきであり、国も特に国立大学を活用し、そのために運営費交付金を重点的に投入すべきだ。

日本の大学が進むべきこの方向性について、政治リーダーと大学人が対話を通じて、共有することが急務である。もちろん、工学分野だけが重要というのではない。医学、農学、理学、さらには人文社会科学等の中にも日本が優位に立てる分野があるだろう。
もし政府の諸会議が大学、とりわけ国立大学の運営形態にばかり目を向け、その果たすべき役割を見失うとすれば、無益な議論を重ねることになる・・・

各国の留学生の受け入れと送り出しとの比率が、表になっています。アメリカ16.2、イギリス14.7は別格として、日本は4.4です。フランス2.7、ドイツ1.9より多いのです。
韓国0.5、中国0.1です。

「大衆の反逆」新訳

6月3日の朝日新聞夕刊に、浜田陽太郎・編集委員の「「大衆の反逆」新訳、死後に書籍化 南相馬在住の思想家」が載っていました。

・・・20世紀の大衆社会を鋭く洞察した、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの名著『大衆の反逆』(1930年)の新訳が4月、岩波文庫から刊行された。すでに3刷が決まり、1万部を超えた。「古典的な文庫としては異例の売れ行き」という。
訳したのは、東京電力福島第一原発事故の被災地で暮らしていたスペイン思想研究家の佐々木孝さん。十数年かけて、2018年末に急逝する直前に完成した。「大衆を批判するエリート」という従来のイメージとは違ったオルテガ像の提示を目指していた。

佐々木さんは上智大でスペイン語と哲学を学び、オルテガやウナムーノの研究をしながら、清泉女子大教授などとして30年余り教壇に立った。その後、故郷の福島県南相馬市に戻った・・・

へえ、そうだったんですね。私は、「今、なぜ岩波で新訳が出るのだろう」とくらいに思っていました。浜田さんの人脈、取材力に驚きます。
これは、新訳を読まなければなりません。

1960年代との意識比較

5月29日の読売新聞が、「変わる仕事・人生観 高齢化 家族に影響…本社世論調査 1960年代と意識比較」を載せていました。前回東京五輪直後の1964年12月調査、1968年調査と、現在との比較です。ちなみに勤労世帯収入は1964年の月収6万円から59万円になり、月の労働時間は196時間から145時間に減っています。平均年齢は29歳から46歳に上がり、高齢者の割合は6%から28%に増えました。

・・・読売新聞社が実施した社会意識に関する全国世論調査(郵送方式)では、前回東京五輪が行われた1960年代と比べ、人生観や親子関係などに大きな変化が表れた。生活水準については、「中流」とした人の割合にほとんど変化がなかった。今日まで半世紀余りの間、経済的繁栄や高齢化の進行など、社会や家族のありようが大きく変容した中で、国民意識が変わった点、変わらなかった点を分析した・・・

連載「公共を創る」で、日本人の意識の変化を議論しています。私が主に使っているのは、内閣府の調査とNHKの調査です。この記事も、参考になります。もっとも、ほぼ常識になっていることが多く、びっくりすることはないようです。詳しくは原文を読んでいただくとして、特徴的なことをいくつか。

自分の生活水準を9段階で回答してもらうと、「中の中」が29%、「中の下」24%、「中の上」19%で、中は合計72%。1964年では「中の中」42%、「中の上」と「中の下」が各16%で、合計74%でした。
多くの人が中と回答していることに変化はありません。中の中が、42%から29%に減り、中の下や下に移っています。まだ貧しかった昭和39年に、多くの人が中と答え、しかも中の中と答えています。

人生観は、「コツコツやる」が53%から29%に減り、「好きなことをやってみる」が4%から16%へ、「迷惑をかけないようつつましく」が14%から26%に増えています。
「老後の親の世話は誰が行うべきか」について、1968年では「長子が行う」が37%、「きょうだい全員が行う」が30%でした。現在では「長子が行う」は4%に減り、「きょうだい全員が行う」が50%になりました。ここには、家族の形・同居や相続の変化が背景にあるのでしょう。
隣近所との付き合いは、1968年に比べ「会えば挨拶を交わす程度」が36%から70%に増え、「困ったときはお互いに手伝う」が31%から6%に、「家を行き来する程度」が19%から6%に減りました。
東京五輪の際に外国人に見てもらいたいものでは、1964年調査で見られて恥ずかしいとなっていた「清潔度やマナー」が、現在では見て欲しい方に上がっています。

社会意識調査「現代日本の社会の心」

吉川徹著『現代日本の「社会の心」 計量社会意識調査』(2014年、有斐閣)を読みました。
「日本思想史2」で書いたように、知識人の意識ではなく、大衆の意識を知りたいので。本棚から引っ張り出しました。役に立ちました。一部で私の関心を超える専門的な話もありましたが。

社会意識調査の花形時代と低迷の時代が、説明されています。1980年代まで、社会意識調査が、日本人の階級・階層を説明することに威力を発揮します。ところがその後、社会意識調査の切れ味が鈍ります。それは、階層(上下)と近代化(新旧)という2つの補助線が使えなくなったからだと主張します。
すなわち、貧富の差が経済成長で変化する、また伝統に縛られていた人がそこから自由になる。その過程では、意識調査が社会意識の変化、社会の変化を反映したのです。ところがそれらが完成すると、この軸での調査は変化や社会を説明しません。そしてそれは、日本人論の流行と低迷と歩調を合わせています。
ここは、私の連載で、経済成長期(近代前期)と成熟社会(近代後期)との違いを説明する際に、強い援軍になります。

P103に、日本人の階層帰属意識の分布の変化が載っています。1955年から1975年にかけて、半分以上を占めた「下」が「中」に移ります。折れ線グラフの変化が、一目瞭然です。それに対し、1975年から2010年では、「中」に集まった山形のグラフは、全く変化しません。
国民意識で「一億総中流」が完成し、もはや社会意識調査は「変化を説明する道具」になりません。他方で、格差社会といわれる社会の変化は、この調査では出てこないのです。
「中流」が国民の目指す目標であり、「自分もそこに属したい」「わが家もそこに属している」という意識が固定し、現実とは乖離しているようです。それは、1975年まであるいはその後の調査において、所得などで中流とは言えない人が「私も中流」と答えていたと思われることとも同様です。実態と意識は、ずれます。
P133に、経済成長期(総中流社会)の階層意識と、成熟社会(総格差社会)の階層意識の「根拠」が図示されています。他者との比較とともに、自分の変化(上昇)を織り込んで、回答するのです。わかりやすいです。

著者は、これまでの補助線が使えなくなった今、どのような説明要因が使えるかも、議論します。不公平感、社会参加、多様性、学歴・・。いくつかは説明できますが、切れ味良い指標は出てきません。それが、現代です。

有斐閣の紹介ページには、書評も載っています。インターネットで読むことができる書評にはリンクが張ってあります。これは、便利です。しかも、匿名の無責任な評価でなく、「一流」の書評です。
佐藤俊樹先生の書評と、直井道子先生の書評を読んでください。私の解説は不要です。