「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

市民の責任

5日の朝日新聞「時流自論」は、河合幹雄教授の「裁判員制が問う市民と情報」でした。
犯罪白書などによれば、2005年に送検されたのは212万人。そこから交通違反関係を除いても、48万人が検挙されている。しかし、裁判にかけられたのは14.6万人、刑務所に入ったのは3.3万人にすぎない。日本の司法現場の運用は、犯罪者をなるべく刑務所に入れない、入れても短期で出す。
誰か世話をする身元引受人を見つけて、起訴を見送ることが通例となっている。釈放してしまうのだ。それでも日本の治安は、先進諸国と比較してケタ違いに良い。この方針で、世界に類を見ないほどに、犯罪者の更正に成功してきた。警察官、刑務官、保護観察官、家裁調査官などのがんばりに加えて、保護司をはじめとした民間の特定の人々が、犯罪者の社会復帰を密かに支えてきたからである。
しかしこの仕組みは、犯罪者の社会復帰を一般市民の生活領域から遠いところで実現したために、市民は何もしなくても「犯罪と無縁の安全な社会」に居られるという感覚を持ってしまった。彼らの視点では、前科者は世間(市民の生活領域)に戻れていないのであるから、刑務所から短期間で出ていることなど、知るよしもない。
裁判員制度は、こうした「隠蔽する官」と「知ろうとしない民」に支えられた成功システムを終焉させるものである。なぜなら市民にとって、犯罪にかかわる情報を知ることなしに自分たちで量刑をすることは、不可能だからである。裁判員制度の導入と安全神話の崩壊は、一部の者だけが更正にかかわり、他の市民は何も知らずに任せきって安心できた伝統との訣別を促す意味で、同じ方向の変化である。それは、社会の透明性が高まり、市民が大きな責任を負う社会の到来である。(3月6日)
15日の日経新聞夕刊に、OECDの「女と男」報告書が、載っていました。それによると、日本人男性の交遊活動が突出して不活発で、世界で最も孤独だそうです。友人や同僚と業務外で外出したり、サークル活動に参加した経験は、17%の日本人男性がないと答え、2位のチェコの10%を大きく上回っています。
人生の満足度でも、ほとんどの国では男性の方が満足度が難いのに、日本では女性の54%に対し男性は52%です。もっと詳しく知りたいですね。

国際化

3月2日の朝日新聞夕刊連載「歌舞伎町のアフリカ人」は、外国人犯罪の増加に対応できていない行政を、取り上げていました。
経済水準の高い日本に、低い諸外国からの流入は止まらない。通訳を介した取り調べでは、核心に迫れない。中国人の考えは中国人の方が分かる。ナイジェリア人のことはナイジェリア人。外国人の捜査員が必要だ、という主張です。カナダでは、入国管理の幹部に中国人を採用し、南アフリカでは中国人の警察官が活動しています。

教員が変わったのか、社会が変わったのか

23日の朝日新聞三者三論は、「教員の質落ちてるの?」でした。野口克海さんは、次のように主張しておられます。
教員の質が落ちたかどうかを論じる前に、教員に必要な資質とは何かを考える必要がある。第一に、教える内容を理解し、わかりやすく教えることができるかどうか。第二に、子どもの心が読めて、子どもとの人間関係がつくれるかどうか。三つめはきちんと出勤し、事務処理をこなせるか、四つめは保護者や地域の人たちとの人間関係を築けるかどうかだ。
・・・個々の先生たちの能力は落ちていないとしても、状況の変化に十分対応できず、悩んでいる先生が多い。学校をとりまく状況の変化とは、端的に言えば、学校の社会的地位が相対的に下がったということだ。昔は、学校は子どもにとって知識や情報の宝庫で、「お母さん、きょう学校でこんなことを習ったよ」と目を輝かせて報告する子どもがいたものだ。いまや学校のほかにもっと豊かな情報や楽しい遊びがある。最近は、自分のほうが先生より学歴も学力も上だと思っている保護者が学校を見下すケースも目立つ・・。
その通りだと思います。近年の教育論議、学校批判は、学校教育に何を期待しているかが混乱したままで、建設的な議論が進んでいません。この指摘のように、問題をいくつかの局面に分けるべきです。まずは前段のように、学校の中での教員に要求される能力です。これは、物差しで測れると思います。
問題は、後段です。日本社会は、学校教育に何を期待しているのか、これをはっきりすべきです。私がいつも指摘するように、発展途上国では、校舎と教員と教科書をそろえれば、教育は成り立ったのです。家庭や地域社会にない知識を与えてくれ、世間より学歴の高い先生は尊敬されたのです。今や、知識だけならテレビや本、インターネット、さらには塾が教えてくれます。教師より学歴の高い親もたくさんいます。これまでのやり方では、尊敬されず、期待されないのです。
発展途上国としての日本の学校教育は、大成功しました。しかし、成熟社会となったときに、学校の役割変化に失敗しているのだと思います。社会が変わったのに、学校の方は変わっていない。だから、学校の評価といった場合に、何をもって評価するかが定まっていません。期待する役割をはっきりしないと、評価できないのです。
また、父兄もその状況を理解していません。みんな経験者なので、1億人が教育評論家です。それはよいことなのですが。父兄が言う「昔はこうでなかった」という批判は、半分正しく、半分間違っています。すなわち、学校が変わったのではなく、社会が変わったのです。
では、これからの学校に期待される役割は何か。知識を教えるだけなら、金持ちの親は塾に行かせたり、家庭教師をつけるでしょう。しかし、私はそれでは、よほどうまく育てない限り、社会で生きていく人間力はつかないと思います。いろんな子どもがいる集団生活の中で、友達もいればいやな子もいることを知ります。また、いろんな成功と挫折を経験して、人間力をつくっていく。これが、学校の役割だと思います。いずれ社会に出ると、学力も必要ですが、その前に定時に出社し、集団生活をしなければなりません。いろんな誘惑に負けず、努力する意思が必要です。それらの方が、学力より必要なのです。
実は、今までも人間力をつけさせる機能は大きかったのですが、知育の陰で隠れていたのです。学力試験と通信簿は、主に知識を問いました。また、人間力は学校の外、地域社会(放課後)での遊びの中で身につけたのです。それが希薄になったことで、人間力を身につけさせることについて、学校への期待は大きくなったのです。(2月24日)
27日の日経新聞経済教室は、白井美由里助教授の「プレミアム商品への消費者心理、主観的満足より品質重視」でした。
わが国の製造業は1960年代以降、品質向上とコストダウンを進め、さらに80年代のプライベートブランド台頭で、同じ商品カテゴリー内での高価格帯と低価格帯の商品を品質で区別するのは難しくなった。そのため90年代以降、消費者が商品を選ぶ要素として、価格のウエイトが高まった。この傾向は豊富な品揃えを誇る百円ショップの成長で一層強まった。ところが、最近新しい変化が見られる。プレミアムを冠した高価格な商品の増加に気づく。仮に低価格品と高価格品の品質に大差がないのなら、消費者は高価格帯の商品に何を求めているのか・・・。興味ある論文です。原文をお読みください。(2月27日)
28日の産経新聞「正論」は、坂村健教授の「自らの力で変われる日本を目指して」でした。そこでは、イノベーションが重要であるが、目標指向型はもはや古いということを、指摘しておられます。
従来型の産業政策は、何か開発目標を定め、それに向かうシナリオを練り・・・という目標指向型のスタイルだった。しかしインターネットの世界的普及とそれを背景とするグローバル化により、変化のスピードと範囲は爆発的に拡大し・・・変化の影響で、いつ目標自体がひっくりかえるかわからない。欧米のイノベーション志向政策の背景には、そういう状況の中では目標指向型の政策立案自体が無意味だ、だから政策スタイル自体をイノベーションしないといけないという強い意識が感じられる。
変化に対応でき、さらにその中で主導権を取って「イノベーション-破壊的な創造」を行える人・組織・国の形をどのように作るか。強いて目標というなら「イノベーションが盛んに生まれる国にする」ことであり、具体的なターゲットはむしろ、イノベーションに必要な多様性と人材や資源の機動性を阻害する要因となる。目標指向型の政策立案はもはや過去のもの。日本も目標指向型から環境整備型に舵をとることを、はっきりと国民に示さないといけない・・・。(2月28日)
昨日書いた坂村先生の主張を読んでいて、なるほどと思いました。私は、発展途上国が終わった日本は、これから民間や公がそれぞれ正しいと思うことを自由に追求する社会にすべきだと思っています。もちろん、その際にはルールを決め、事後監視、救済も必要です。しかし、イノベーションが必要としても、官が目標を決めてそれに向かって社会ががんばるのは、変だと思っていました。それだと、これまでの官が目標を決め民が従う社会と同じなのです。
坂村先生の主張で、納得しました。官がすべきなのは、目標を決めるのではなく、障害を除去するのですね。もちろん、所得再分配とか社会保障・安全などで、官が決めなければならない目標はあります。しかし、イノベーションの目標は、官が決めることができるものではないでしょう。
あわせて、先日の諮問会議を思い出しました。2月16日の会議で、規制改革が取り上げられました。その際、草刈規制改革会議議長が、次のような発言をしておられます(議事要旨では7ページ)。
「規制改革会議の運営方針等について報告する・・。重要課題解決の阻害要因、つまり消費者、生活者のニーズの阻害要因となっている規制は、当然のことだが、成長阻害要因であるので、「撤廃・緩和」を果断に進めていくというのが基本的な考え方になる」

国際化

23日の読売新聞夕刊は、「ルポ、過密刑務所」で、受刑者にいろんな国の人が増えている実情を、報告していました。府中刑務所では、3,200人を収容していますが、内550人が外国人です。驚くのは、その多様性です。46か国、35言語の人を収容しています。セネガルのウォロフ語、ウガンダのルガンダ語は、私も初めて聞きました。通訳の確保が大変です。また食事や文化への配慮も必要です。豚肉を食べない、断食月があるイスラム教徒や、菜食主義者などです。国際化は、いろんなところに表れています。(1月24日)
25日の朝日新聞は、愛国心に関する世論調査を載せていました。日本に生まれてよかったが94%、すべての年代で9割を超えています。よくなかったは、わずか3%です。愛国心があるは78%、ないは20%です。外国の軍隊が攻めてきたら、戦うが33%、逃げるが32%、降参するが22%でした。(1月27日)
12日の日経新聞「インタビュー領空侵犯」に、森雅彦森精機製作所社長が「景観規制、経済にプラス」を書いておられました。
「奈良公園、橿原神宮、明日香村などを結ぶ幹線道路の風景は、ガソリンスタンドののぼり旗、消費者金融、パチンコ、ラブホテルなどの派手な広告が野放しでぐちゃぐちゃです」。私もかねがね思っていました。この道路は国道24号線で、子どものころ父親の自動車に乗せてもらい、良く通った道です。それは、日本各地にある、郊外の国道沿いの風景です。
違う点といえば、そこが記紀万葉のふるさとである、いろんな遺跡や景観(大和三山、三輪山、青垣山など)がある場所だということです(すみません、それぞれの地にそれぞれの歴史があるのですが、自分の生まれ育ったところに思い入れがあるので)。私の子どものころに比べ、近年はそのけばけばしさが激しくなっています。日本の経済成長と景観の美しさは、反比例したようです。衣食足って礼節知る、ではなかったです。
次のようにも、言っておられます。「たとえば米国人が、工作機械の買い付けで1千万円の予算でドイツを訪れたとしましょう。フランクフルト空港からシュツットガルトへ、2時間くらい車で移動する。回りの風景がとても美しく、心もなごみます。価格交渉で『上乗せしてもやむを得ないか』という気持ちにもなります。日本ではどうでしょう。『何だこの道路の風景は。本社の前にラブホテルまである。こんな企業からなら800万円くらいで買えるかもしれない』と考えても不思議ではありません」。そうですね。このような経済効果だけでなく、日本人というものを尊敬してもらえないですよね。(2月12日)
9日の朝日新聞三者三論は、移民国家ニッポン?でした。宮島喬さんの発言から。
「日本を労働鎖国と呼ぶ人がいるが、この認識は正しくない。不法滞在を除いても、すでに60万人ほどの外国人が働いており、数の上では開国状態と言える。問題はその実態である。日本政府は治安や文化的摩擦などへの警戒心から、単純労働者は受け入れないことを基本姿勢にしてきた。一方、製造業などの人手不足を補うために90年代、南米出身の日系人を就労制限なしで受け入れたり、技能実習と呼ぶ制度を設けたりして、単純労働に就くことを実質的に認める迂回ルートを作ってきた。・・・迂回ルートで来日した日系人は、子どもを産み育て、滞在が長期化する傾向にある。こうした現実を知りながら日本政府は、定住を認めるような移民国になることへの国民的合意がないことを理由に、社会的に受け入れる制度作りに背を向けてきた。その影響は深刻になっている。もっとも問題なのは教育だ」
「日本でもまもなく、日系人の子どもたちが大人になる時期を迎える。彼らを孤立させないための社会の変化は不可欠である。その一つとして、日本人の多様化は避けて通れない。米国ではイタリア系米国人、中国系米国人といった呼称が当たり前になっているが、日本にはこれに対応する言い方はない」
この問題は、各省の谷間に落ちてしまっています。私は、早く、定住外国人担当官庁をつくる必要があると考えています。(2月14日)
16日の朝日新聞三者三論は、「膨らむ生活保護」でした。
湯浅誠さんの発言から。
15~64歳の稼働年齢層といわれる人の申請が、すんなり通ることはまずない。財政上の制約に加え、社会保障の現場にまで自己責任論が入り込んでいるからだ。こうした運用が許されてきたのは、国に代わり、最低限の生活を保障する存在(家族、地域、企業)があったからだ。これらの機能が小さくなり、期待できるのは公的扶助だけなのに、国は制度を充実するどころか、生活保護費の引き下げを目指している。アメリカでは最低生活に必要な所得を公的な「貧困線」と定めて周知し、自分が貧困かどうかが分かる。イギリスやドイツは、生活困窮世帯が何世帯あり、うち何世帯が生活保護を受けているかという「補足率」を公表している。日本ではこれらをしていない。知らせると対策を迫られるので、貧困を意図的に隠しているとしか思えない。
野田誠大阪市担当部長は、現場の実情を踏まえ、市長会の提案している生活保護制度改革のポイントを紹介しています。
受給世帯の半分を占める高齢世帯は、経済的自立が無理なので、別制度に移行させる。生活保護水準が、非正規雇用者の収入や最低賃金に比べ高いので、自立しようとしない、自立が難しい。これらの釣り合いを取るべき。ニートやワーキングプアは元気なうちは良いが、将来の生活保護予備軍である。保護になる前に、脱出させる仕組みが必要。自立できる可能性のある人に先行投資をすることは、長い目で見ると費用対効果で優れ、国の活力なる。(2月17日)
17日の朝日新聞夕刊は、社会的企業を取り上げていました。福祉、教育、貧困、地域再生など、社会性の高い課題に取り組む団体です。利益を上げないと事業は継続しませんが、利益を目的にしていません。形は、株式会社やNPO法人などです。記事では、病児保育を支援するNPO法人、老人ホーム紹介をビジネスにする会社、ニートにインターネットラジオで情報を提供するNPOなどが紹介されています。(2月17日)
19日の朝日新聞「時流自流」は、本田由紀さんの「企業の家族依存を正せ」でした。
新規学卒採用の活発化が報道されているが、今後の若年雇用に楽観的な見通しを抱くことはできない。その理由は、年長フリーターの存在だけではない。第一に、今後も不安定就業や無学のまま離学する層が、一定規模で生み出されると予想されること、第二に、離学後に正社員の雇用を得ながらも、その後に非正社員や無業へと離脱する層が増加していること、第三に、非正社員の処遇に改善の兆しが薄いこと、を指摘しておられます。
そして、低収入の若年非正社員が3人に1人に達するほどの規模になっていることについて、なぜそのような事態が社会全体で成立可能なのかを問うておられます。若者に対して批判的な論者は、若者が親に依存し寄生してあくせく働かないからだと説明してきた、しかし、現実はそのような個人単位の説明を超えた規模になっている。社会的に見ると、個々の若者が親に依存しているのではなく、経済システムが家族システムの含み資産(親の収入や住居)に依存しているのだ、という説を紹介しておられます。これほどの大量の低賃金労働者が暴動にも走りもせず社会内に存在しえているのは、彼らを支える家族という社会領域の存在に企業が寄りかかることにより、彼ら生活保障に関する責任を放棄した処遇を与え続けることができているからなのだ。
この事態を一体どうするのか。「再チャレンジ」政策や「成長力底上げ戦略」は、機会の実質的な拡充を伴わないままに、問題を個人の努力というミクロ次元にすり替える結果に終わることが危惧される。マクロな次元の社会設計として、企業が労働者に対し果たすべき責任を完遂させる強力な枠組みが不可欠である。また企業と家族以外に個人にとって安全網となる制度を公的に手厚く整備する必要がある・・・詳しくは原文をお読みください。

国際化

日経新聞10日「成長を考える」は、医療=産業論でした。詳細は本文を読んでいただくとして、私が考えたのは、その中の「患者は空を飛んでいく」についてです。記事では、日本人が視力回復治療のために、年間1万6千人もの人が、タイのある病院に行くのだそうです。日本の半額で、できるのだそうです。
グローバル化によって、いろんなものが国境を越えて移動します。足の速いのは、お金や情報です。国境をものともせず、動き回ります。次に物です。工業製品を輸出し、農産物などを大量に輸入しています。いくつかは関税で守られていますが、経済の論理では早晩自由化されるでしょう。
人については、「輸入」を限定している日本では、まだ国境が高いと思っていました。しかし、労働力に着目すると、工場を海外に移設し現地の労働力を雇うことで、事実上の労働力の輸入になっています。また、コールセンター(電話受付)を海外に移す場合は、もっと見えやすいです。その分、日本の労働者が失業したり、低賃金になりました。近年の労働に関する問題、すなわち給与が上がらないこと、失業者が多いことは、ここにも大きな原因があります。
土地は輸入できないものですが、これもその機能はすでに輸入しています。農産物を輸入しているのは、海外の農地を借りて生産していることです。数年前にネギの輸入、セーフティガードの発動が問題になったのは、これです。ネギ苗は、日本から持って行っているのです。中国の土地と労働力を日本に持ってこずに、現地で使っているのです。
対人サービスが、輸入できないものとして残ります。しかし、この記事を読むと、医療サービスも国境を越えているのですね。もちろん、そこまで金を出さない診療は、国を越えないでしょうが。
11日の日経新聞は、「動産担保融資、地方で急増」を伝えていました。これまで日本の銀行は、土地を担保にするか、借り主・保証人に責任を負わせてきました。土地本位制・右肩上がりの時は、これでよかったのでしょう。しかし、右肩上がりでなくなったときは、もはや土地と保証人では融資する先がありません。融資される方も、土地がないと金を貸してもらえないようでは、事業を起こすことはできません。ちなみに、日本では学校を作るときも、土地と建物が必要です。でも、学生が求めるのは、教育内容であって、立派な建物でなく借り上げ校舎でも良いんですよね。
このような変化も、日本が経済成長・発展途上国を終えたことによるものです。もっとも、私の友人によると、「銀行の多くも、土地なら評価は簡単だけど、事業の評価は慣れていないからねえ・・」とのことです。それに加えて「官庁だって、予算と定数で評価していたじゃないか。お互い様だ」という批判もついていました。(1月11日)
13日の日経新聞「世界を語る」は、フランスのジャック・アタリ氏の「グローバル化の将来は。市場と民主主義、両立がカギ」でした。
アメリカ主導のグローバル化について、次のように語っています。
「次第に勢いを弱めながら、あと30年といったところか。世界中に市場経済と民主主義による統治の仕組みを広げようと、必死にヒトやカネを投じて本国は疲弊した。ローマ帝国が東西に分裂した後も、法の支配、軍隊の組織といった遺産が、社会のインフラとして受け継がれた。米国が打ち出した市場経済と民主主義の基本原則も、米国の盛衰にかかわらず残っていく」
市場経済と民主主義の相互の関係については、「市場経済と民主主義はそれぞれ普遍的な価値観、社会の仕組みだが、放っておくと市場経済が民主主義を駆逐して、民主主義が廃れる恐れがある。市場経済が地域や分野を問わず拡散する特徴を持つのに対し、民主主義は特定の国家権力の及ぶ領土に限られたものだからだ」「民主主義を懸命に支え、もり立て、市場経済と競合できる対等な関係を保つことだ。二つを不可分に結びつければ、グローバル化は世界にとって脅威ではなく、福音となる」