朝日新聞オピニオン欄は、1月23日24日と「経済成長を問い直す」を特集していました。有識者9人と記者による議論です。様々な見方が出されていて、勉強になります。簡潔なので、読みやすいです。いろいろと、考えるきっかけになります。私は、次のように考えています。
近代に入って、急速に経済成長が進みました。それは、科学技術が進歩したからですが、それを求めた社会があったからです。すなわち、豊かになりたいという願望、それは現代とは比べものにならない貧困や病気に悩む現実がありました。そして、自然は神が支配するのではなく、科学技術によって人類が理解でき、進化させることができるという社会の見方の革命が、歴史を変えました。
さて、西欧先進国に遅れて、この経済成長社会に参入した日本は、明治以来の「追いつけ追い越せ」努力において大成功し、世界トップクラスの豊かな社会を作りました。明治憲法にも昭和憲法にも書かれていませんが、日本国憲法の第1条は「欧米を見習って豊かになること」でした。
ところが、豊かさという目標を達成すると、経済成長は第一の目標になりません。かつて自動車を持ちたいという願望は強く、まずは軽自動車を。それを手に入れたら次はカローラ、そしていつかはクラウンでした。でも、その次は・・。日本の迷いの時代が始まりました。他方で、世界的に低成長、デフレの時代になりました。どうやら、日本だけが特殊な「失われた20年」ではなかったようです。
経済や財政は幸せになるための手段であって、目標ではありません。豊かさも人類にとって重要な目標ですが、それだけが人生の目標でもなく、社会の目的でもありません。他方、豊かで平等な日本を作ったと満足していましたが、日本社会や地域社会を見なおすと、格差、地域の疲弊、若者の非正規雇用、子どもの虐待など様々な問題が生じていました。これらの解決にも、経済成長は必要でしょう。しかし、それだけでは解決しません。拙著『新地方自治入門-行政の現在と未来』以来の、私の考えです。
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古代の女性官僚
伊集院葉子著『古代の女性官僚』(2014年、吉川弘文館)が、勉強になりました。女官というと、古代中国や朝鮮の後宮を思い浮かべ、皇帝や王の妻や側室に仕える女性、その候補者をイメージする人も多いでしょう。あるいは、江戸城の大奥のように、閉ざされた社会を思う人もいるでしょう。ところが日本の古代朝廷では、これらとはまったく違った存在でした。天皇の近くに仕える、官位と重要な職を持った(それが律令に定められている)、高級官僚でした。単なる身の回りのお世話係でもありません。男性官僚より常に天皇近くに仕えているので、大きな権力も持っていたのです。
中国王朝では、皇帝の活動を表と奥に峻別し、宦官制度を使い、女性はもっぱら奥向きの存在だったようです。ところが、日本の古代朝廷では、表でも、男性官僚系と女性官僚系の2系列がありました。妻も夫も高級官僚という家もたくさんあったのです。卑弥呼女王の頃からそうだったんでしょうかね。
中央貴族だけでなく、地方豪族からも出仕する制度がありました。貴族の子弟が、家の名誉と発展を担って出世競争したように、彼女たちも、実家の一族の期待を背負って働いたのです。もっとも、男性官僚系と女性官僚系と2系列なので、同じ職や同じ出世コースを男女が競い合うものではありません。へ~っと驚くことが多いです。ご関心ある方に、お薦めします。
感染症との戦い
石弘之著『感染症の世界史―人類と病気の果てしない戦い』(2014年、洋泉社)が、勉強になりました。スリリングでさえあります。人類がこれまで、いかに多くのまた強い感染症と闘ってきたか。大勢の死者を出しつつ、ここまで生き延びてこられたことが、奇跡のように思えます。
ウイルス、細菌、寄生虫によって、マラリア、コレラ、ペスト、インフルエンザ、はしか、風疹、結核。最近では、エイズ、デング熱、エボラ出血熱といった多くの患者や死者を出す感染症が人類を襲います。薬剤を開発したら、それに抵抗力を持った微生物(耐性菌)が生まれてと、人類と微生物との果てしない戦いが続いています。もっとも、人間中心でない視点で見ると、微生物と人類(及び他の動物)の「共生」の歴史です。
戦争で亡くなった多くが、戦闘ではなく感染症だったこと。動物のうち一番危険なのは、蚊であること。感染症で亡くなった有名人など。へ~と思うことが、たくさん書いてあります。
新約聖書はどのようにしてできたか
先日の『聖書時代史旧約篇』(12月21日の記事)に続き、佐藤研著『聖書時代史新約篇』(2003年、岩波現代文庫)を読みました。こちらは、ユダヤ教からどのようにしてキリスト教ができたかの歴史、その推察です。イエスと言われる人は、いたらしい。しかし、その人がキリスト教を作ったわけではないようです。ユダヤ教の中の一つの派「ユダヤ教イエス派」が信者を増やし、ユダヤ民族以外に広げる際にユダヤ教から独立していったようです。なるほど。新約聖書の中の文書が書かれたのは、紀元1世紀から2世紀半ばまで。それが正式に新約聖書として確定されたのは、393年です。イエスが生まれてから、400年も経ってからです。
・・「キリスト教」と呼ばれるに至った宗教が、その基盤のユダヤ教から自覚的に自らを切り離して独り立ちを始めたのは―全体は一つの漸次的なプロセスであったとはいえ―実は紀元70年から1世紀の終わり頃である。それまでは、ユダヤ教の内部改革運動の一つであったと見なすのが、事態に最も即している。したがって、イエスもパウロも、「キリスト教」なるものは知っていなかったのである・・(まえがき)
キリスト教(の前身)以外にも、ユダヤ教にはいろんな派がありました。またキリスト教にも、その中にいろんな派がありました。その中で、現在のキリスト教が勝ち残りました。ユダヤ教から独立するまでは、本流になれず分派した過程です(しばしば、分家の方が本家より発展する場合があります。新大陸とか)。その後は、傍流を異端として排除した過程です。勝ち残るには、それだけの教義とともに、力業も必要であったのでしょう。政治に政策とともに権力が必要なのと同様です。組織の運動論、派閥抗争としては、このような見方もできます。
旧約聖書はどのようにしてできたか
山我哲雄著『聖書時代史旧約篇』(2003年、岩波現代文庫)が、勉強になりました。旧約聖書は、古代イスラエル・ユダヤ民族の歴史を記録したものです。しかし、それは現代で言う「歴史の記録」ではありません。
・・旧約聖書の歴史書の多くは、部分的に古い伝承や資料を用いているものの、語られる出来事よりもかなり後になってからまとめられたものであり、起こったと信じられている出来事や経過についての後代の信念と解釈を伝えるものなのである・・
・・古代イスラエル人にとって歴史とは、神によって動かされるものであり、神の意志、神の行為の展開する舞台であった。例えば出エジプトという出来事は彼らにとって、神による救いの歴史、すなわち「救済史」に他ならず、王国滅亡とバビロン捕囚という破局に向かう歴史は、イスラエルの度重なる契約違反の罪とそれに対する神の審判の歴史、すなわち「災いの歴史」=「反救済史」を意味するものであった・・
神話と歴史の混合です。口承伝説が、後に書物としてまとめられました。その際には、事実の記録ではなく、信仰の拠り所という意図からまとめられています。この本をはじめ聖書時代学は、発掘結果や他の資料(古代エジプト)などから、何が事実であったか、どのようにして聖書が成立したかを研究しています。
それにしても、紀元前12世紀ごろからの(部分的な)史実を伝えているとは、驚きです。周辺にたくさんの民族があったのに、ユダヤ民族だけが連綿と伝えました。王の名前が次々に出てきて混乱しますが、ダビテ王が紀元前1千年頃で、その後中断をはさんで紀元前1世紀まで続くのですから、当然ですよね。
この後、国家としては滅亡し、世界に散らばることになります。しかし、旧約聖書は生き残ります。また、ユダヤ民族は続きます。その大きな要因が、旧約聖書とユダヤ教です。民族を民族として団結させる要素を持っていたのでしょう。中国でも古い記録が残り、しかも民族が入れ替わっても伝えられたことも、すごいことですが。
この本には続編があります。佐藤研著『聖書時代史新約篇』(2003年、岩波現代文庫)。これから挑戦します。かつてジョン・リッチズ著『1冊でわかる聖書』(邦訳2004年、岩波書店)を読みましたが、すっかり忘れてしまいました。「また、変わった本を読んでますねえ」と、F君に笑われそうです。