カテゴリー別アーカイブ: 歴史

1920年代、両大戦間期の「改造」思潮

8月21日の朝日新聞文化欄、「1920年代とは、どんな時代だったか」。山室信一・京都大学名誉教授の「1920年代、両大戦間期の「改造」思潮」から。

デジタル技術で新型ウイルスの情報が瞬時に伝わり、グローバルに結びついた経済がロシアのウクライナ侵攻で動揺している。現代と似たような事態に直面した時代が20年代だ。第1次大戦(14~18年)を経て、世界の一体化が急速に進んだ。戦争で人の移動が増え、スペイン風邪が世界規模で流行(18~21年ごろ)。通信社は文字や写真を電送できるようになった。身体感覚や時間感覚が変化し、意図しなくとも、個人が世界の動きに連動するようになった。

世界が同時性をもって変化した背景には「改造」の思潮があった。英語の「リコンストラクション」だ。英国の哲学者バートランド・ラッセルが16年に反戦の立場から著した『社会改造の原理』が世界で読まれた。20年代にかけて、戦災や災害から復興し、社会を改めようという空気があった。
政治的には、敗戦国ドイツが専制君主国家だったとして、世界で自由や民主主義への改造が支持され、20年に国際連盟、28年に不戦条約が生まれた。日本では「大正デモクラシー」を迎え、25歳以上の男性に選挙権が与えられた。

日本が戦争に向かう背後にも「改造」があった。第1次大戦は国家の人や財を全て動員する総力戦。欧州戦線の情報に刺激された日本陸軍は、総力戦の備えを始めた。18年には早くも軍需工業を動員する法律ができ、25年からは学生に軍事教練を課した。大学で反対運動が起きるが、同年成立の治安維持法で取り締まられた。30年代に急に戦争へ走るわけでなく、20年代から準備が進んでいた。

国立公文書館「江戸城の事件簿」

国立公文書館で、「江戸城の事件簿」という展示が行われています。面白いです。お勧めです。
赤穂浪士の原因となった松の廊下の刃傷は有名ですが、江戸城ではそれ以外にも、何度も大名たちが刀を振り回しています。切りつけた大名と切りつけられた大名はその後どのように処分されたか、居合わせた武士たちはどうしたか。
城内でいじめに遭った武士が、同僚に刃物を向けます。さて、その処分はいかに。
江戸城に迷い込んだ猫と犬がいたそうです。どうして入ることができたのでしょうね。では、それをどのように処理するか。これが大ごとです。そんな記録が残っているのです。

岡崎守恭著『大名左遷』(2022年8月、文春新書)を本屋で見つけたので、読みました。江戸時代に入って、各地の大名は、幕府から何かと名目をつけられて、改易(お取りつぶし)、転封(国替え)を命じられます。1代で5回も国替えを命じられた殿様もいます。私の故郷明日香村のお殿様は、高取藩植村公でした。司馬遼太郎さんの「おお大砲」にでてきます。その話と植村家も取り上げられています。

江戸城で刃傷沙汰を起こし、大名から転落した後、老中まで復活した水野家の話は、かつて、福留真紀著『名門水野家の復活―御曹司と婿養子が紡いだ100年』(2018年、新潮新書)を読んで、へえと思いました。

日本の伝統の未来、西陣織

7月24日の読売新聞、細尾真孝・西陣織細尾社長の「美意識と創造性 工芸の力」から。

・・・「工芸」という言葉を辞書で引くと、「実用性と美的価値とを兼ね備えた工作物を作ること」とあります。人間の創造性の原点にあるのは、自らの手でより美しいものを創り出したいという原始的な欲求。それに忠実であること。つまり、美意識を持った創造的活動だと考えています。
その工芸が、近年、世界的に注目されています。

先月、世界最大級のインテリアやデザインの見本市「ミラノ・サローネ」に出展しました。商談会への参加は10年ぶりのことでしたが、新作のシルクとヘンプ(大麻)をミックスした布のシリーズを出品し、大きな手応えを感じました。
世界1500社を超える有名企業が最先端のデザインコンセプトを披露する見本市では、各社ともコロナ後の新たな価値観が商品に打ち出されていました。表面的なデザインではなく、自然とのつながりや、長く使い続けられるものの大切さ。そして、人間の「手」の力などがベースとなった美しさを追求する傾向にあります。工芸や工芸的思考に通じるものです・・・

・・・先代がパリのインテリア見本市に出展し、和柄のクッションを出品したのを見て、西陣織を海外で展開するのは面白いと思ったのです。
一人で世界各地の展示会を回って営業したものの、事業にはならない。社内には「着物が厳しいのに、なぜ赤字になることをする。道楽じゃないか」という空気が流れていました。
08年、パリで日仏交流150周年を記念した展覧会が開かれました。「日本の感性価値」がテーマで、ゲーム機や携帯電話などとともに、細尾は琳派の柄の帯を出品しました。展覧会は好評で翌年、ニューヨークに巡回しました。
会期終了直後に一通のメールが届きました。差出人は、世界的な建築家のピーター・マリノ。展覧会で帯を見て、店の内装に使う布の開発を依頼してきました。しかも、鉄の溶けたような柄です。フランスの高級ブランド、ディオールの店のためでした。彼が注目したのは、西陣織の技術と素材。和柄でないと海外で勝負できないと信じていたのが固定観念だったと気付かされたのです。
ただ、問題は布の幅です。織機は着物や帯のためなので大体幅32センチで内装には使えません。西陣織として初の150センチ幅が織れる織機を開発することを決め、1年がかりで完成させました。

西陣には世界一複雑な構造を織ることができ、様々な色を織り分ける技術もある。箔を使った素材もそうです。織機を作ったことで、見える世界が変わった。世界のテキスタイル(布)市場に参入し、高級ホテルなどでも使われるようになりました。他業種との協業や研究開発も相次いでいます。
工芸の世界は斜陽と言われています。ニッチだと言われたり、遠い存在に思われたり。しかし、日本は工芸大国です。風土や伝統、歴史を生かした、その土地ならではの工芸が数多くあります。世界の人たちが知らない技術や素材、ストーリーもある。チャンスと捉えることもできるのではないか・・・

関ヶ原で西軍が勝っていたら

井上章一先生が、その著書「関西人の正体」(2016年、朝日文庫)の40ページ以下で、次のような話を展開しておられます。

1600年の関ヶ原の合戦で、石田三成にもう少し人望があれば、西軍が勝っていた。すると、上方(京都と大阪)が日本の中心であり続け、NHKのアナウンサーも関西弁を話したはずだ。
浪速の商人とそれが支える政権は鎖国をせず、海外に雄飛を続ける。18世紀には西から来たイギリスと覇を競い、インド洋で衝突する。もしそこで日本が勝っていたら、大阪が世界の経済の中心となり、関西弁が世界の共通語になっていたはずだ。
イギリスの中学校で、「かんにん」「ほんまかいな」という会話を教えていたはずだ。

ほんまに、そうですなあ。えらい残念なことですわ。私も東京に出てこんで、関西で暮らしていたやろうに。
NHKの天気予報で「明日は雨です」と伝えるアナウンサーに向かって、「アメ(強・弱)とちゃう、アメ(弱・強)や。アクセントが違うてるで」と叫ばんでもよかったのに。

『信長が見た戦国京都』

河内将芳著『信長が見た戦国京都』(2020年、法蔵館文庫)を紹介します。
私たちは、京都の街並みというと、平安京を基礎にして碁盤の目のような町ができあがり、建物は建て変わっても、今日まで続いているように思ってしまいます。平安京の西側・右京は早々と荒れてしまったとは聞きますが、あまり想像ができません。

この本は、織田信長が初めて上洛したとき(1559年)に、京の町はどのような姿になっていたかから始まります。平安京から、鎌倉時代、室町時代、そして応仁の乱以降、どのような変遷を経たかを描きます。
平安京が衰退したあと、応仁の乱などが京の町の縮小に輪をかけます。上京と下京の小さな町、現在の上京区と下京区よりはるかに小さな町が、自衛のための門や堀などを持ってできあがります。
度重なる焼き打ちなどにも遭いますが、復興します。それだけの財力と住民の組織があったのです。そして、それらに支えられた日蓮宗の大寺院が建ち並んでいました。建築だけを見ていては、なぜそのような町ができたのかは分かりません。政治、経済、地域、社会から見た中世の京都です。良く分析した良著です。

なぜ、信長は本能寺に泊まったか。武装集団を泊めるだけの宿泊施設はなく、信長は自分の居城を京都に持ちません。多くの武士は、上洛して民家を借り上げ(接収)したり、大きな施設であった寺を借ります。相手にとっては迷惑な話です。逆らえば、えらい目に遭います。金で解決するか、言うことを聞くかです。