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ヨーロッパで考えたこと2

【異質なものとの共存】
もう一つ、ヨーロッパで考えたのは、異質なものとの共存です。それは、次のようなことです。
ドイツでもパリでも、街でイスラーム系と思われる人をたくさん見かけました。もちろん黒人を始め非ヨーロッパ系の人もです。特にパリでは、バスがそのような人たちが集住している地区を通ってくれました。
白人であっても、東欧・南欧と思われる人、すなわち典型的ドイツ人やフランス人でない人も多そうです。私には、明確には区別はつきませんが。
ホテルで洗濯物を取りに来てもらったら、スカーフをかぶった中東系の若い女性でした(私と彼女で、英語でやりとりするのです。もっとも、アメリカ人としゃべるよりは通じたかも)。
フランスは総人口が6、000万人、うちモスリムが500万人、1割近くと推定されています。パリでの密度はもっと大きいでしょう。
パリには昔から、いろんな国の人がいます。ヨーロッパだけでなく、かつて植民地であったアフリカや東南アジアからの人たちもです。数多くの外国人を受け入れてきました。もちろん日本人の画家も。しかし、なぜモスリム(イスラム教徒)だけが「問題視」されるのでしょうか。そして、なぜ近年問題になったのでしょうか。
帰国して本屋で、内藤正典著「ヨーロッパとイスラム-共生は可能か」(岩波新書、2004年)を見つけました。そこに、切れ味よく経緯と分析が書かれています。
私の理解では、次のようになります。
ヨーロッパは、ヨーロッパ『文明』を受け入れるという条件の下で、外国人を受け入れてきました。その文明とは、基本的人権の尊重であり、政教分離です。それを受け入れれば、たとえ『文化』が違っても、受け入れてきたのです。
中華街ができても、日本のラーメン屋ができても。その点、フランスに移住した外国人は、東欧系であれ、アフリカ系であれ、アジア系であれ、ヨーロッパ『文明』に帰依したのです。
しかし、イスラームは政教分離ではなく、近代ヨーロッパ『文明』の「啓蒙主義」と相容れないものがあるのです。
さてこの点、日本はどうでしょうか。日本は、ヨーロッパ文明圏に入りましたが、日本文化と異なる文化を持った人たちが入ってくることに、まだ抵抗が強いようです。文明の違いの前に、異文化の人たちを受け入れる努力は少ないようです。そして、彼の地のような議論は、あまりなされていません。
もちろん、ヨーロッパ諸国は、地続きであることと、植民地支配の「負の遺産」を抱えているという背景もあります。でも、それを言うなら、日本も植民地支配の過去があります。また、ボートピープルという難民が来たこともありますし、北朝鮮からの「脱北者」受け入れもあります。
「花の都パリ」「国際都市ロンドン」にあこがれて、日本からも多くの人が渡りました。それを、彼の地・彼の人たちは受け入れてくれたのです。東京が「国際都市」を標榜するのなら、あるいは諸外国の人から「あこがれの地」となるためには、異文化の人を受け入れる雰囲気が必要でしょう。
「パリやロンドン、ニューヨークには行くが、外国人は受け入れない」では、尊敬されませんよね。
さて、もう一つ、ヨーロッパでの異質な文化受け入れの努力についても、述べておきましょう。先に紹介した、羽場久み子著「拡大ヨーロッパの挑戦」には、25もの国が統合される際の「苦しみ」も書かれています。
私たちから見ると、ヨーロッパはキリスト教という共通の歴史を持った「一体感あるまとまり」と思えますが、内実はそうではありません。キリスト教だって、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教と異なります。民族も言葉も、そして文化もかなり違います。
そして、この半世紀、西側資本主義国と東側共産主義国とに別れ、対立してきたのです。それは、自由主義経済の定着発展度合いの違いから、民主主義や自由主義といった政治の仕組みと運営の違いなども違います(新しい国をつくる努力については、別に書く予定です)。
さらに、経済力が違います。1人あたりGDPでは、EU平均の半分程度でしかない国もあるのです。
これらの違いを前提として統合するには、かなりの努力が必要です。均質化するのでなく、「多様性を持ったままの統合」です。

三位一体改革19

3日の朝日新聞は「義務教育費の国庫負担」と題して、浅野史郎宮城県知事、保利耕輔自民党文教制度調査会長、木村陽子地方財政審議会委員の意見を載せていました。
【官庁文学】
4日の朝日新聞夕刊には、坪井ゆづる論説委員が「官庁文学の極み」を書いておられました。3兆円目標と書くべきところ、「おおむね」や「規模」をつける意味。「検討する」の意味。官僚のサボタージュを批判しておられます。官庁文学については、拙稿「進む三位一体改革-評価と課題」の「注29」を参照してください。
「目標も責任の所在もあいまいにした表現の積み重ねの先に、どんな結果が待ち受けているのか。これから、しっかり見極めたい」とも、書いておられます。おっしゃるとおりです。
でも、このように官庁文学的表現を含みつつ、三位一体改革は進んでいます。それは「3兆円」が書かれたからです。(9月4日)
【今後の予想】
今後の予想を大胆にしてみましょう。
閣僚会議や地方団体との協議の場などがもたれ、11月には決定されるでしょう。いろんな反論が出るでしょうが、決定されるものは地方団体案と大きくは変わらないと思います(17年度分と18年度分への切り分けは必要です)。
1 政府として、地方団体に案の作成を依頼した。それを尊重しないわけにはいかないこと。総理は既に「真摯に受け止め、誠実に対応する」と言っておられます(8月24日、31日諮問会議)。大きく変わるようだったら、地方団体が黙っていないでしょう。
2 各省が反対するが、それはさほど「意味を持たない」こと。補助金廃止は各省が反対する、そして進まないので「官僚を飛ばして」、地方団体に案の作成を依頼した。この時点で官僚は「飛ばされている」のです。
3 各省の反論は、有効とは考えられないこと。各省がどんな反論をしても、補助金をもらっている地方団体が「もう要りません」「私たちに任せてください」と言っています。これを越える有効な反論は考えられません。(9月4日)
【補助金廃止で総額は増える?】
10日に、各省の予算要求が、財務省から閣議に報告されました。一般会計総額は、88兆円です。そのうち地方団体向け補助金は、今年に比べて5.8%増の18.6兆円とのことです(この他に特別会計分があります)。
なんと、三位一体改革が進んでも、補助金が増えるのです。もちろん、今年のように社会保障関係補助金が増えるということもあります。
でも、これから2年間で3兆円補助金を削減すると閣議決定していながら、要求総額が増えるのは・・。おかしいと思いませんか。
(官僚の限界)
各省官僚が、三位一体改革(補助金削減)をまじめに考えていない、ということでしょう。あるいは、考えていても行動に移せない、からです。官僚制とは、与えられた個別の目的を達成するための組織であり、全体を考えるようにはなっていません。そしてそこに属する人間は、自らの組織と資源を最大化するように行動します。官僚制と官僚は、そんなものなのです。補助金廃止の場合は、官僚と官僚制の限界がよく見えるのです。
「日本で一番頭がいい」といわれている官僚が集まった結果がこれです。内政問題は、まだ良いです。国民がその結果や負担を負えばいいのですから(でも、子孫に負担を残すことは良くないです)。しかし、国際問題では、そうは言っておられません。(9月11日)
9月11日の日本経済新聞は、「義務教育改革 課題を聞く」の連載で、梶原全国知事会長へのインタビューが載っていました。
【政治的意義】
12日の東京新聞「時代を読む」は、佐々木毅東大学長の「三位一体改革の『政治化』」でした。
「・・・政治の新たなうねりを感じさせるのは、・・・地方6団体が大幅な補助金削減案を正式に決定したことである。」「この補助金削減案は権限と財源の委譲とセットの関係にあり、『国のかたち』にかかわる重大問題である。」
「この改革には二つの側面がある。一つは委譲すべき権限や財源の内容をめぐる問題であり、・・二つ目は、この難問を処理する政治的仕組みと場の問題である。私が政治の新たなうねりとしてここで関心があるのは後者の問題である。」
「今年の『骨太の方針』において首相は・・補助金の削減案のとりまとめを地方の側に宿題として投げかけた。・・この作戦は重い政治的帰結を持つものとなった。そもそも権限と財源を掌握している側が、その委譲を求める側に決定権を一部にせよ与えるかのような対応は極めて重大な決定である。・・この背後には、中央政治・政府の曖昧な先送り体質があったことは否定できない。」
「一連の動きはあくまでも政治的動きでしかないと見ることもできるが、政治的動きに重大な責任が伴うことも事実である。首相の側が中央政府の動きをコントロールし、しかるべき成果を示すことができなければ地方の側が政治的責任を問うであろうし・・・。かくしてこれまで政治的に一見中立に見えた中央・地方関係問題は今度の新たなステップによって『政治化』し始めたと見ることができる。」
今回の一連の動きについて、政治的評価は拙稿「進む三位一体改革-評価と課題」に書いておきました。佐々木先生と大きく違わないことで、自信を持ちました。今後の動きの予想は、日を改めて書きます。(9月13日)

ヨーロッパで考えたこと

欧州随行記その2の付録です。
【できないと思われていることを行う】
ヨーロッパ旅行中に、高橋進著「歴史としてのドイツ統一-指導者たちはどう動いたか」(岩波書店、1999年)を読みました。買って「積ん読」のままだったのですが、ちょうど良い機会だと思って、鞄に入れていきました。
筆者も書いておられます。「戦後のドイツ外交を研究してきた者として、ドイツの統一は、私が生きている間はありえないというのが、染みついた公理であり・・」。私も、そう思っていました。「『ドイツ統一』と関係者は言ってはいるが、ベルリンの壁が崩れることはない。東西ドイツが統一されることはない」と。
1989年当時は、ニュースを見て、ただ驚いていたただけです。それは、私の中の「公理」が現実を認めたくなかった、ということでもありましょう。
時間が経つと、「政治というものが社会を動かすのだ」、「政治家が歴史を作るのだ」という観点から、気になっていました。人間が歴史を作るという観点からは、キッシンジャー著「外交」(上下、1996年、日本経済新聞社)やニクソン著「わが生涯の戦い」(1991年、文藝春秋)を読んで、すばらしいと感じていました。これは、拙著「明るい係長講座」でも、少し触れました。
確かに、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一には、東ドイツを始めとする東欧諸国の経済停滞がその基盤にあります。しかし、それはすべてが歴史的必然ではなく、人為による部分が大きいのです。
東ドイツ指導者にとっては、選択肢は限られていました。しかし、これまで繰り返されたソ連による軍事弾圧の恐れの中で、これまで繰り返した武力鎮圧を取らず、解放を決断しました。一方、西ドイツ指導者は、難民受け入れ決断から東ドイツ「回収」まで、構想を立て、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連と交渉し、実行していったのです。
あわせてこの機会に、羽場久み子「拡大ヨーロッパの挑戦-アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか」(中公新書、2004年。久み子の「み」は難しい字です。)を、読み終えました。
ヨーロッパ連合(EU)は、2004年5月に新たに10か国を加え、25か国もの連合体になりました。しかも、ポーランドやハンガリーといった東欧諸国が入ったのです。人口は4.5億人、GDPは9兆ドルです。アメリカは2.9億人、10.5兆ドルですから、まさにアメリカと並ぶ「大国」です。ちなみに、日本は1.3億人、4兆ドルです。
さらに、余り知られていませんが、北大西洋条約機構(NATO)も26か国に拡大しています。そこには、ルーマニアやブルガリアも含まれています。かつて、NATOは西側諸国の軍事同盟であり、それに対抗して東側諸国はワルシャワ条約機構を構成していました。それを思うと、考えられない変化です。
(また、新しくEUに加盟する旧社会主義国は、参加のための条件を満たすためにも、自由主義と民主主義の創設と運用に苦労しています。)
ひるがえって、アジアではどうでしょうか。歴史や文化がヨーロッパと違うので、そう簡単には「連合」にはいかないでしょう。しかし、私が比較したいのは、そのような構想を立て、努力しているかです。そして、日本がどのように貢献しているかです。
私は、政治とは「政治家と国民の努力過程」であると考えています。放っておいても平和で豊かという国や地域もあるでしょう。しかしそれは、政治という観点から採点するなら、評価は低いでしょう。
たまたま戦争がなかったからといって、政治家は評価されません。戦争を回避する努力をしたかどうかで、評価されるのです。
ドイツ統一とEU拡大。そこにあるのは、それまではみんなが「できない」と思っていたことを実現することです。そこには、構想し・関係者に手を打ち・世論を誘導し・決断し・実行する、ということが必要です。
それは、人為です。それが、政治でしょう。しかも、「放っておけばそれはそれで済むことをあえて変える」というすごさです。
「自然となる」でなく「人為でそうする」です。これに比べ、日本の政治には「構想・実行」という要素が少ないと思いませんか。日本の政治にそれが欠けているのは、歴史観・文化の違いがあるのかもしれません。そして、島国でかつ単一文化・単一民族に近かったことも、その基底にあるのでしょう。
もっとも、明治国家をつくった人たちは、封建国家を近代国家につくりあげたのですから、日本にもそういう経験はあるのです。
しかし、戦後半世紀、国際政治では、平和憲法とアメリカの傘の下、国際貢献(社会づきあい)をしなかったこと。国内政治では、経済成長の上がりを配分するだけで済んだこと。この二つで、深刻な「政治」をしなくて済んだのです。こうして、ますます日本の政治は、「為す」でなく「なる」になってしまいました(拙著「新地方自治入門」p295以下参照)。

予算査定の成果

国では、8月31日に来年度予算の各省からの要求が出ました。新聞各紙は、「予算編成作業が始まった」と書いています。今日は、国の予算査定について解説します。
「31日に開かれた主計官会議の席上、主計局長が強い口調で、各省庁の予算要求に切り込むよう発破をかけた」(9月1日日本経済新聞など)とあります。
確かに、このような姿勢は重要です。しかし私は、このような訓辞に疑問を持っています。これから12月まで財務省主計局による予算査定が行われますが、そんなに大きく削減できるとは思われません。
主要な経費は、社会保障・教育・公共事業・国債償還・人件費です。社会保障費はその主要な部分について、仕組みが法律で決まっています。仕組みを変えない限り、高齢者や医療費が増えると自動的に増えます。年金・医療・介護・生活保護について、この秋に主計官が査定で変えることができるのは、そんなに大きくありません。
教育も、40人学級の制度を変えない限り、生徒数に応じて教員給与は決まります。これらについては、何年も前から制度改正を仕組まない限り、秋の査定で削減はできないのです。人件費も同じです。国債償還費は既に決まっています。あとは金利が上がれば、利払い費が増えます。公共事業は、査定の余地があります。
また国庫補助金については、先に紹介したように財務省は「なぜ不要か説明してもらう」と自ら言っていますから、これが削減されることは「期待薄」でしょう。
となると、査定できる範囲は非常に限られてきます。事務費といくつかの政策経費(それも小物)しかないのです。
また、予算の基本方針は、経済財政諮問会議で決められます。そして、予算要求は「要求基準」いわゆるシーリングに基づいて行われます。となると、大幅な歳出削減をするためには、次のような手順が必要です。
まず、社会保障などについて、制度改革の方針を決める必要があります。これは数年かかります。次に、公共事業について、諮問会議で削減スケジュールを決める必要があります。それを、要求基準に盛り込む。こういう手順を取らないと、秋の査定ではほとんど削れないのです。
「精神論」だけでは、結果は出ません。上司たるもの、部下に対し、目標値と手法を示す必要があるのです。主計局長は、どの程度の目標を示されたのでしょうか?
毎年、主計局ではこのような号令がかかっていると思います。でも、その結果どの程度削減できたのか、評価をすべきでしょう。財務省詰めの記者さんたちが、ここ数年の実績を調べてくれることを期待します。赤字国債は30兆円にもなっています。12月に、今回の予算査定で何兆円削減できたかを見ることにしましょう(拙稿「予算査定の変容」月刊『地方財務』2003年12月号を参照ください)。