岡本全勝 のすべての投稿

新しい仕事23

日本の雇用、労働法制の問題点を勉強するべく、八代尚宏著「雇用改革の時代-働き方はどう変わるか」(中公新書、1999年)を読みました。勉強になりました。私は労働関係の専門家でないので、先生の指摘がすべて正しいかどうかは分かりません。しかし、日本が労働関係の面でも、これまで発展途上国・高度成長期に適合した仕組みが、成熟国・低成長期に足かせになっていることについて、目から鱗が落ちました。
今の労働法制が、結果として企業の正社員優遇となっていて、それ以外の働き方、特にパート・派遣・女性・中途採用・転職者に不利になっていることは、ここでも何回か指摘しました。
これまでの日本の労働法制は、過去の雇用形態・社会意識を背景にしたものでした。それは、未熟練労働者があぶれていて、その「弱者」を守ってやらなければならない社会、労働者は大企業で一生働き昇進することを望み、妻は家庭を守るのでそれを養うだけの給与をもらうことが理想とされた時代の産物でした。そして、それはうまくかみ合ったのでした。もちろん、この理想型に乗らない人も多かったのですが、みんないつかはそうなるとあこがれて努力したのです。
長期不況と言うより低成長に入って、正社員以外の働き方が増えてきたこと、すると日本の雇用は非正社員にはとても冷たいことが見えてきたのです。また、会社は永遠のものでなく倒産することもあること、すると年功序列と退職金を期待していては損をすることがあること、また中途採用者に冷たいことが見えてきたのです。
これまでの日本型社会は、「ムラ社会」と呼ばれます。それは、身内には優しく、外部の人(よそもん)には冷たいという性格を持っていました。またその構成員は、戸主であって婦女子は正メンバーではありません。大企業の終身雇用を理想とする雇用形態も、これですね。
(諸制度のビッグバン)
このように日本が成熟国・低成長期になったことに従い、これまで適合的だった諸制度が大きく改革を迫られています。経済で見ると、国内で威張っていた会社も、国際的に生き残れるか試練に立たされています。それに勝ち残った会社だけが、生き残るのでしょう(実は国際的な企業は、日本人には日本型給与制度を適用し、外国人にはそうでない給与制度を適用しているのです)。経済界に君臨していた銀行はいくつも倒産し、生き残ったものは大再編を経験し、さらに新しい金融モデルを模索しています。
公共の面でも、例えば司法制度が、大改革を進めつつあります。介護保険を導入し、年金制度も大改正を迫られています。市町村は大合併を行い、公共事業を大幅に削減し、また事務を民間へ大胆に委託を始めました。もう右肩上がりではないのです。
後世、この前後20年は、大変革の時代と評価されるでしょう。その方向は、これまで官と民が仕切られた業界ごとに拡大と保護を目指したのに対し、新しい時代は海外との競争で仕切りが低くなり、業界ではなく顧客・国民を相手にしなければなりません。また、画一大量でなく多様な要求に答えなければならず、拡大ではなく維持と質の勝負です。
国内の仕切られた競争・成長の時代から、仕切りの低い質の競争への転換です。「ビッグバンの時代」と言って良いでしょう。この変化を先取りし改革したものが、勝ち残り、あるいは国民に評価されるでしょう。過去の成功にとらわれていると、傷口を広げ、国民の負担を増やすのです。その象徴は財政で、公共事業拡大と国債増発でした。行政分野では、ここで取り上げた労働法制以外では、教育・農業などが心配です。そして、公務員制度、霞ヶ関も転換に遅れています。

2006.11.24

今日は、またまた省庁改革本部減量班の同窓会でした。会員の一人がローマから帰国し、もう一人の福岡からの出張にあわせて企画しました。ある一人が遅れて出席。理由は、上司の課長がビールを飲むのにつき合ったのでとのこと。ほぼ毎日だそうです。今頃、職場で酒を飲んで、仕事をする上司がいるんですね。一昔前なら、よく見ましたが。私もしたので、反省しています。
飲んでするような仕事が、能率が上がるとは思えません。部下に迷惑をかけているだけでしょう。よほど、家に帰るのがいやなんでしょう。新橋に行けば、安くて飲めますよ。職場で酒を飲んで仕事をするような上司は、国家公務員法違反で処分できないのでしょうか(笑い)。

日本社会の規範と革新

23日の日経新聞経済教室「イノベーション、本質と課題」は、薬師寺泰蔵教授の「競争的模倣で世界リード」「秩序の硬直性正せ、新たな社会規範の議論を」でした。ドイツとアメリカのイノベーションと社会規範との関係を紹介した後、日本について語っておられます。
「近代日本はキャッチアップ国家であり、国家が権威を作り運用した。大学制度しかり、官僚制度しかり、財閥系企業しかりである。この権威に対抗する社会規範はわが国にはない。そのかわり平等主義という社会的安全弁があった。権威の外縁にいても給与、待遇で大きな差別はなく、イノベーションで世界的な仕事をしようとしまいと待遇に大差はない・・」
「変革の契機は別のところで始まるだろう。すなわち、国家が決めた権威ではなく待遇を選ぶという世代が育ち、日本の権威に興味のない外国の研究者が日本で働きたいと思い、自分の挑戦する場所を自分で決めるために移動したいと思ったとき、現在の日本的社会規範は阻害要因になるということだ。そこで、組織に縛られない人の流動化の促進、権威主義から待遇主義への転換など、新しい社会規範の方向性の是非について国民的議論を高める必要がある・・」

官から民へ

21日の朝日新聞では、「小さな政府改革、識者3人座談会」「官から民、なぜ今」で、北城経済同友会代表幹事、加藤秀樹構想日本代表、広井良典千葉大学教授が、議論しておられました。
「官から民へ」という言葉は、水戸黄門の「葵の印籠」のように、重宝がられています。私も使っています。もっとも、ここでも議論されているように、詳細は必ずしも詰まっていません。すなわち、なぜ官から民なのか、何をもって政府の大きさを測るのか、縮小すべきは何か、残る国の役割は何かが、問題なのです。
「官から民へ」は一つのスローガンであって、政治家がしゃべる分には良い言葉です。しかし、スローガンであるので、学問的には詳しくは定義された言葉ではありません。そして、この言葉は運動方向(ベクトル)を表しているのであって、対象物や目標は明らかではありません。もっとも、だからこそスローガンとして優れているのです。何にでも使えるからです。
なぜ官から民なのかは、赤字財政でこれ以上、今の財政支出を続けられないからです。また、官が支配することで、民間の活力が削がれるからです。
何を縮小するかは、分野別に議論しなければなりません。安全安心・社会保障などは、そうは縮小はできないでしょう、すべきでないでしょう。今後縮小すべきは、公共事業や産業振興だと思います。そしてこのような縦割り分野別でなく、横割り事務別の切り口も必要です。教育や福祉であっても、民間が実施できます、しています。官がしなければならないのは、その企画と基準作りと検査でしょう。実施は、どんどん民間に委ねることができるのです。
これからの行政や研究者の仕事は、どの分野どの事務を民に切り出すか、それを提言することでしょう。政治家は運動論、官僚と学者は理論編が仕事です。拙著「新地方自治入門」では、第8章で議論しました。機会があれば、もう少し議論を深めたいと思います。このことについて書いた本・教科書って、ないですよね。

新しい仕事22

20日の日経新聞夕刊「生活ワーキングウーマン」は、「パート労働法改正へ、正社員並み賃金実現か。働き方は同じ、処遇改善に動く」を解説していました。「かつてパートと言えば主婦が中心だった。ところが最近は若者が入ってきた。雇用の多様化がもたらした影の部分として格差論議が活発化し・・」。そうなんです。だからこの問題が、女性欄で取り上げられるのですよね。