会社による社会保障国家の限界

3月14日の朝日新聞夕刊、浜田陽太郎記者の「休職体験への指摘 「正社員」の私、分断を自問」から。

・・・やはり来たか――。予想はしていたが、グサッと刺さった。
「55歳の『逃げ恥』体験」という記事を、朝刊リライフ面で連載している。
「自分は会社で役立っていないのでは」と悩んだ私は「自己充実休職」という制度を使って1年間、九州・大分で過ごした。その体験を軸にした記事だ。デジタル版では昨年末、同じストーリーをより詳しく書き込んで配信している・・・
・・・「正直、共感するポイントを探すことが難しい」。私の記事にこんなコメントを寄せたのは、人類学者の磯野真穂さんだった。
任期無しの正社員に一度もなったことがない磯野さんにとって、落下しても「ふかふかの羽毛布団と高級マットレス」が待ち構えている人(つまり私)と、「冷たいコンクリート」がある人(任期付きで働く多くの非正規労働者)が存在することをあらわにされた気持ちはぬぐえないという厳しい「感想」だった。
ただし、磯野さんは、こうした思いを言葉に出すことの危うさへと論を進める。「あなたよりもっと大変な人がいる」という語り口を進めれば「不幸の総量」が発言力を決める事態に陥るからだ。個々人の感じる苦しさを重量のように比べる議論は分断しか生まない……。・・・

・・・ 最近、ある有識者から、子育てや住宅の分野で日本の社会保障が立ち遅れたのは「それはカイシャ(会社)が面倒をみるべきもの」という規範意識が岩盤のようにあるからだ、と指摘された。
カイシャが面倒をみるのは正社員のみ。その枠から漏れる非正規労働者には「冷たいコンクリート」しかない状況を変えるため、政府にお金を預け(税金を払い)、社会保障を充実すべきだとの主張はこの岩盤を崩せていない、という。
正社員にも切実な不安や苦しみはある。だが、その吐露を批判されるのは嫌。黙って岩盤を守っている方が得策。そんな気分が自分にないか、自問自答するところから始めている・・・