お願い対応は法に基づかぬ統治招く懸念

6月8日の日経新聞経済教室、大屋雄裕・慶応義塾大学教授の「次の危険への備え、平時に 危機下の民主主義」から。詳しくは、原文をお読みください。

・・・多くの先進国では、それが日常とは異なるという点に注目し、戦争に対応するための法制度を危機へと当てはめる対策がとられてきた(表参照)。日本でも戦前の体制では、非常時に軍隊による治安維持を可能にすること(戒厳の布告)が憲法上想定されていた。
だが周知の通り、日本国憲法はそうした体制が引き起こした問題点への反省を契機として、平和から戦争へと移行することを厳に禁じるという特徴を持っている。軍隊や警察による強制的なロックダウン(都市封鎖)が実施されることなく、ただ自制と協力を訴えかける「お願い」のもとで、ある程度の日常生活が維持され続けるという、特に欧米の目から見れば奇妙な対策がとられた。その背景には、そもそもそれ以上の対応を認めた制度が存在しないという事情があった。

だが、それでも今回の危機は何とか抑えられたからいいだろうと、そうした手法を手放しに肯定することが許されるだろうか。
本来はある程度の自主的な判断や弾力的な対応が許容されるはずのお願いのもとで、自粛への過大な社会的圧力が生じた面もあっただろう。さらにはお願いをすら超える水準の対応を他者に強制して回る「自粛警察」と呼ばれる人々を生んでしまったことも事実だ。お願いの範囲や強度が適切だったか、補償や経済的支援など負担に相応する配慮がなされたかを検証するための制度が存在しないことも問題として指摘できる。

それでも建前上は平和の中にとどまることができ、それ以外の状況を認めない憲法の枠組みを傷付けなかったことに満足する人もいるかもしれない。しかしその結果、法の外側の圧力の存在を許容することによりかえってコントロール不能な状況を生み出さないか、様々な人権侵害や政府権限の拡大が放置される結果に陥らないかということは、再検討する必要がある。
むしろ危機を安易に戦争へと移行させないために、危機時にも決して手放せない自由や人権とは何か、逆に言えば政府にどこまでは許してもいいかについて、平和時に事前に定めておく必要があるのではないだろうか。あるいはその中で、ただちに憲法自体の改正に飛びつかないとしても、これまでの制度や理解のあり方について修正を図る必要が出てくるかもしれない・・・