「行政」カテゴリーアーカイブ

行政

最近の政権の評価

10月25日の日経新聞「経済論壇から」、土居丈朗・慶応大学教授の「高市新首相の政権運営」から。
・・・石破茂首相が退陣表明してから1カ月半かかって、ようやく10月21日に高市早苗氏が新首相となった。
政策研究大学院大学教授の飯尾潤氏(週刊東洋経済9月27日・10月4日号)は、これまでの政権運営は、本格的な「アジェンダ設定の不在」こそが、国民の政権や自民党への不信感を増幅させたとみる。アジェンダ設定とは、単にどの問題を取り上げるかだけではなく、どのような視点から問題を把握して、どの方向へ解決していくかという要素を含む。石破内閣は昨年の衆議院総選挙以来、アジェンダ設定権を野党に奪われたままで、日本をどこに持っていくのかが示せなかった。

少数与党だから仕方ないという言い訳ばかりでは、政策遂行能力が疑われる。安倍晋三政権の下で、官邸主導体制が確立し、官僚のみならず政治家まで、官邸からの指示待ちのクセがついてしまった。自民党内でしっかりした政策論議があれば、人々の関心はむしろ自民党内の議論に集まり、アジェンダ設定権を取り戻せる。議論に説得力がなければ、自民党はもっと苦しい立場に置かれると手厳しい。

石破内閣は決定的な失策を犯したわけではないが、コメと関税の問題を除いてほぼ「やってる感」を示さなかったと評するのは、東京大学教授の境家史郎氏(中央公論11月号)である。
地方創生や防災庁設置といった石破首相肝いり政策は、実質的に日の目を見る前に政権が終わった。コメの価格高騰対策、高校の授業料無償化、「103万円の壁」の見直しが、石破内閣の主要業績というが、後の2つについては野党が持ちこんだものだった・・・

多党化時代の野党

10月24日の朝日新聞オピニオン欄「多党化時代の野党」。

・・・多党化のなか、各党の動きがめまぐるしい。自民党は日本維新の会と連立を組んで与党にとどまった一方、野党は首相指名で足並みがそろわなかった。野党の役割と、その現在地とは・・・

砂原庸介・神戸大教授「監視役だけでなく、政権を」
・・・野党に求められる役割は、一般的に言えば政権党へのオルタナティブ(別の選択肢)を提示することです。政権党と野党は、あらかじめ決まっているものではありません。それぞれが政策のパッケージを提供して、有権者に選んでもらうというのが基本的な発想です。同時に政権交代を起こすことで「いまの政権与党に罰を与える」という有権者の感覚もあります。有権者から見て野党が選択肢になることが前提です。
野党には政府を監視する役割もあります。もちろん大事ですが、監視だけをずっと仕事にするわけではない。監視して問題があった場合に辞めさせるくらいなら、自分たちが政権をとって正しいと思うことをやればいいのです。昔は自民党だけが政権をとるのが前提でしたが、今はそうでもない。自分たちを常に野党だと自己規定することはありません。実現したいことがあるのなら連立政権に参加してもいいはずです・・・

多党化が進む要因のひとつに国政選挙の比例代表部分があります。特定の有権者の明確な支持をもたらすような政策を訴えることが個々の政党の得票の伸びに関わってきます。
もうひとつは地方自治体の選挙です。地方選挙では、地方議員が個人で選挙を戦っている傾向があり、そんな地方議員にとって、自分の所属する政党が、ライバル関係にある他の地方議員の政党と協力するのは支持しにくい。政党がまとまりにくい理由です。
もう少し政党単位で物事を考えるようにするためには、都道府県議会や政令指定市議会を中心に、地方議会の選挙への比例代表制導入が考えられます。日本の地方選挙は世界的に見ると極端に個人中心の選挙です。地方で政党の存在感が増せば、多党化しても有権者も政党のイメージを持ちやすくなるのではないでしょうか・・・

大島理森・元衆院議長「別の軸、かたまり作る責任」
・・・今回、自民と日本維新の会は政策合意し、閣外協力で連立することになりました。今後、信頼関係を築き、責任を共有して安定した政治運営をしていただきたい。その過程で連立与党の世界観、国家観といったものが出てくるでしょう。
これに対して野党はどうあるべきか。
政策ごとに連携する「部分連合」を志向する政党もあるように見受けられますが、あまり肯定しません。いずれ政権をとるという志を持たないといけない。そうでないと政治から緊張感が失われます。私には2度下野した経験があります。それでも我々は一日も政権奪還を忘れなかった。それが野党の務めです。

とはいえ、多党化が進み一党で政権をとるのは難しくなっている。とすれば、野党も与党に対応する「連立形態」をつくり、与党とは別のビジョンを示して対抗する他ありません。
現状では、野党第1党の立憲民主党がいかにして大きなかたまりを作れるかでしょう。立憲には3年余り政権を担ったメンバーがいます。その経験を踏まえ、党として何を目指すのかを明確にしてほしい。例えば、働いている人々にどうアプローチするか、中国を含むアジアなどにどう対応するのか。立憲にはその責任があると思うのです。
既成政党への不信が高まり、新興政党に支持が向かう多党化の今、問われているのは政党の意義です。ここで政党が踏ん張り、二つのグループを形成できれば、有権者に政権の選択肢ができる。公明の連立離脱を契機に、日本に新しい民主主義を作っていただきたい。老兵としてそう思います・・・

参考「二大政党制より二大陣営対立へ

憲法考、憲法第9条の2

連載「公共を創る」第214回(2月27日)で、日本国憲法が改正されないこと、そして実態と乖離していることを説明しました。その延長で、いくつか述べます(この原稿も書いたまま放置してありました)。「憲法第0条」「解釈改憲

憲法9条に関して、自衛隊という実体があること、それが必要であることから、第9条を改正すべきでしょう。さらに私は、「第9条2」を追加すべきだった、追加すべきだと考えています。私が考える第9条の2は、次のような条文です。

1 前条の規定を担保するため、アメリカ合衆国が我が国を防衛するために必要な条約を、アメリカ合衆国と締結するものとする。
2 前項の規定を実行するため、日本はアメリカ合衆国に、基地など必要なものを提供する。

日米安保条約は、独立の際に結ばれた、講和条約と一揃いの条約です。簡単なところで、ウィキペディアの「日米安保条約」を引用します。
「1951年(昭和26年)9月8日、アメリカ合衆国を始めとする第二次世界大戦の連合国側49ヶ国の間で日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌1952年(昭和27年)4月28日に効力が発生した。この際、同条約第6条(a)但し書きに基づき、同時に締約された条約が旧日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)であり、この条約に基づき、連合国軍による日本の占領統治は終了して日米両国は国交回復し、GHQ麾下部隊のうちアメリカ軍部隊は在日米軍として駐留を継続し、他の連合国軍(主にイギリス軍)部隊は撤収した。」

日本国の安全を守るために、自衛隊(自衛権)とともに、日本はアメリカに依存しています。このような基本的重大なことは、憲法に規定しておくべきでしょう。

故村山富市首相の評伝

村山富市元首相がお亡くなりになりました。各紙が評伝を載せています。10月18日の朝日新聞は、坪井ゆづる・元朝日新聞論説委員の「評伝 戦後50年刻んだ「けじめ」 「なるはずなかった」首相の決意 村山富市さん死去」でした。
各紙とも、首相在任中の功績や、社会党の政策を大転換したことを書いています。坪井さんの記事はそれだけでなく、首相の時の失敗と辞めた後の社会党の運営のまずさについても、客観的に書いています。何をしたかだけでなく、何をしなかったかを評価することは重要なことです、難しいことですが。

・・・在任中に、阪神大震災やオウム真理教事件に見舞われ、初動のまずさを批判された。準備もなく就いた首相の重責を担い切れないさまは痛々しかった。
その後の社会党の衰退を食い止められず、「社会党の葬儀委員長」とも言われた。連合の結成で、労働運動が官主導から民主導へと変質するなか、政策転換が遅れた。そのうえ、自民党の復権に利用された。首相退陣後に、新党結成を唱えたが、自壊する党をまとめきれぬまま、1996年の民主党結党からは、はじき飛ばされた。
もっと幅広い社会民主主義の政党づくりに成功していれば、永田町の光景もずいぶん違っただろう。本人は後年、その責任を痛感し続けていた・・・

私も、細川内閣が瓦解した後、社会党左派だった村山さんたちが、自民党と組んで政権を取ったときには、それこそ仰天しました。社会党右派が自民党と組むのなら、まだ理解できるのですが。左派は、右派の現実路線を散々批判していたのです。「今までの主張と行動は、何だったんだ」と思いました。

私は、阪神・淡路大震災の政府の初動のまずさは、首相に帰されるものではなく、政府と行政機構の責めだと考えています。その後の社会党の消滅については、社会党右派と左派のせめぎ合い、山花貞夫さんの努力と挫折なども含めて分析する必要があるでしょう。

産業復興「グループ補助金」の限界

10月12日の朝日新聞「東日本大震災15年へ」「「三陸の希望に」頼った補助金」から。復興庁では、企業から派遣してもらった職員の提案で、「結の場」という、大手企業が助言する場も設営しました。全てがうまくいくことは難しいです。

・・・東日本大震災で被災した会社を、30歳のとき、いきなり任された。
2011年3月11日、イカの加工品を作っていた「共和水産」(岩手県宮古市)は、材料のほとんどを津波で失った。
鈴木良太さん(43)は専務に就任し、社長の父に代わって仕事を一手に引き受けた。
被害総額は1億3千万円。取引先との関係を切らさず従業員33人の生活を守るためには、一刻も早い再開が必要だった。

同業者に誘われて頼ったのは「グループ補助金」だ。複数の被災事業者がグループを組み事業計画を作って申請すると、1業者あたり15億円を上限に、国や県が再建費用の4分の3を補助する。
制度初の募集に手を挙げ、採択された。別の補助金や会社負担も合わせて6億6千万円をかけ、保管庫と生産能力が2倍の新工場を建てた。
自身も、王冠をかぶって「イカ王子」を名乗って広告塔に。通販商品を次々と考案し、イベントに出た。売り上げは震災前の約3倍の11億6千万円に。従業員も増えた。
復興庁は、「三陸の水産業を盛り上げる希望になりたい」と話す鈴木さんを、成功例として「産業復興事例集」に取り上げた。
しかし、23年10月、資金がショートし、9億6千万円の負債を抱え、民事再生法の適用を申請した。「沼に入ったようだった」
実は、震災前から3億円以上の負債を抱えていた。売り上げの9割は宅配サービス業者向けの仕事で、他社と卸値の値下げ競争を繰り返す薄利多売の事業構造から抜け出せていなかった。

東日本大震災では、被災した中小企業の復旧を支える「グループ補助金」制度が作られた。企業の再建費用の4分の3を公金で補助する破格の制度だ。約5300億円が投じられ、今月、岩手県・宮城県での募集を終える。その後の大災害でも活用されたこの補助金は、地域に何を残したのか・・・

続き「なりわい再建、お金だけでは 「専門知識持つ伴走者欲しい」
・・・地域経済の早期復興を描いて創設されたグループ補助金=キーワード。東日本大震災で被災した8道県、延べ1万余りの事業者に5342億円が交付された。このうち、倒産した事業者は、朝日新聞の取材では少なくとも214ある。
共和水産もその一つだった。補助金を受けた後、売り上げは増えたが、依然として9割は、大量の受注がある宅配サービス業者向けの仕事。不漁と材料費の高騰、電気代の値上げも追い打ちをかけ、作れば作るほど赤字が増えた。
2024年9月に東京の商社に新工場を譲渡し、個人事業主として再出発した「イカ王子」の鈴木良太さん。「ありがたい制度だったが、こっちで値段を決められない被災前の業態を変えなければ、いつかは倒産していた。お金だけでなく、長く『伴走』してくれる専門知識を持った人が欲しかった」と話す。

一方、震災前から将来の方向性を見据えて「助走」していた企業にとっては、補助金は変化のきっかけと原資になった。
岩手県釜石市の水産加工会社「小野食品」は、全工場が被災。グループ補助金を原資に、4億5千万円かけて再建した。
小野昭男社長(69)は震災前から「BtoB(企業から企業へ)」の商売に限界を感じ、地元の水産物セットを毎月定額で届ける通販を始めた。震災後、通販会員は10倍以上に。昨年度の売り上げは震災前の4倍の54億円に達した。小野さんは、「補助してもらった分、税金を払ってお返ししている」と話す。

グループ補助金は現場の要望を受け、応募の要件は少しずつ緩められてきた。20年には「なりわい再建支援補助金」となり、事実上、一企業や個人の申請も可能に。24年に起きた能登半島地震でも、引き継がれた・・・