カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

弱い者が発展する

吉村仁著「強い者は生き残れない-環境から考える新しい進化論」(2009年、新潮選書)を読みながら、かつて議論した次のようなことを、思い出しました。この本の内容からは、ずれるのですが。
強い者と弱い者の、どちらがその後、発展するかです。条件が変わらなければ、当然、強い者が勝ち残ります。しかし、同じ条件や環境は、長くは続きません。すると、弱い者が次の時代の勝者になるのです。
暮らしやすい森を追われた哀れな猿が、その後、人類に進化しました。森に残った強い猿は、そこで進化を止めました。追い出された方は、二本足歩行を始め、様々な生き残り戦略を、工夫しなければなりませんでした。
ヨーロッパで暮らしにくかった人、食っていけなかった人は、新大陸に追い出され、そこで今日の発展を作り上げました。
NHK朝の連続ドラマ「おしん」では、兄は家に残り貧しい農家のままでした。口減らしに追い出されたおしんは、努力して豊かになりました。
資源に恵まれなかった日本は、技術を発展させ、経済大国になりました。日本よりはるかに資源に恵まれた国は、そんなことをしなくても豊かでしたが、技術は日本より後れました。
弱い者が、従来の場所を追い出されます。そして、次の場所は、必ずしも暮らしやすい場所ではありません。条件が良い場所ならば、強い者が先に行くはずです。そして、その条件の悪い場所で、適応し、能力を伸ばした者が、発展するのです。会社や組織でも、同じような例はたくさんあるでしょう。会社や学問にあっては、従来の場所はそのうちに飽和します。新天地を開拓しない限り、次なる発展はないのです。
もちろん、追い出された者が、すべて成功したわけではありません。努力とともに、運も必要でしょう。

社会保障制度、前提とした社会の変化

17日の日経新聞経済教室は、貝塚啓明先生の「構造変化への対応遅れる社会保障」でした。1950年代、60年代に設計された日本の社会保障制度が、日本社会の変化によって現実にそぐわなくなっていることを、簡潔に整理した論文です。
当時は人口も経済も右肩上がり、終身雇用制や年功賃金制を前提としていました。今は、経済は停滞し、少子高齢になり、非正規雇用が多くなりました。
介護保険は、その社会の変化に対応するためにつくられたものです。しかし、健康保険や年金制度は、財源と給付の前提が大きく変化しました。これについては、少しずつ手直しを、してきています。しかし、生活保護が大きな機能を期待されることは、この近年のことです。
詳しい内容と改革の方向は、原文をお読みください。

近代日本の成功・本人の努力と環境の幸運と

近代日本が驚異的に成功した理由には、日本自身の努力(国民の努力と政府の舵取りが良かったこと)があります。しかし、日本の努力だけでは、こうも成功しなかったのではないかというのが、わたしの考えです。その際の、日本を取り巻く条件(国際的な条件)も、大きかったということです。
戦後の高度成長は、日本の努力だけでなく、競争相手がいなかった、追いかけてくる相手がいなかったことが、大きかったのです。アジア各国はそれぞれの事情で、日本を追いかけることができませんでした。それ故に、日本だけが先進国を追いかける利益を独占しました。1990年代になってアジア各国が追いかけてくるようになると、日本経済の優位性は、弱くなりました。このことは、何度かこのHPで書きました。
もっとすごかったのは、明治維新から日露戦争までです。東洋の島国が30年間で列強と伍するまでになるという、世界の歴史でもまれに見る大成功でした。維新の英雄たちの活躍がなければ、この成功はなかったでしょう。しかし、このときも、国際条件が幸いしました。
アメリカは南北戦争で忙しく、イギリスとフランス、ロシアは、クリミヤ戦争で忙しく、日本にかまっていられなかったのです。あの列強諸国が、侵略の手を控えた時期、19世紀後半に日本は、世界にデビューしたのです。アジア各国は、列強の支配や影響に悩みましたが、日本だけが、違う道を歩むことができました。日本が中国などと比べ、富国強兵・殖産興業につとめたことは、評価されるべきでしょう。しかし、ペリー来航が1800年だったら、どうだったでしょうか。もちろん、アメリカの事情で、そんなことはありえませんでしたが。
近代日本の歴史で、この二つの時期、19世紀後半と20世紀後半の日本の驚異的成功は、日本だけでなく、世界の歴史として記録されるでしょう。しかし、もしその時期が半世紀だけ、前か後にずれていたら、これほどの成功はなかったでしょう。
勝者は成功を自分の功績としたがり、敗者は責任を他者に負いかぶせたがります。真実は、しばしばその中庸にあります。あるいは、視野の外にあります。

リスク再論・政府が取り組む課題

10月22日の日経新聞経済教室に、林良造先生の「政府、リスク管理手法磨け」が載っていました。政府が、リスクに取り組むべき方法について、参考になりました。しかし、私は、少し違った考えを持っています。
先日も書きましたが、リスクを分類し、狭いリスクと広いリスクを区別すべきだと思います。
先生も、「政府の役割とは、自然や人為的な大規模な破壊による被害を予防・軽減し・・」と書いておられます。私が言う狭いリスクは、これです。
一方、先生が議論を展開しておられる、財政赤字、規制改革の遅れ、不明朗な政策の優先付け、行政機関の様々な不祥事などは、狭い意味でのリスクではありません。これらは、確かに将来、政府に被害を与えます。しかし、自然や人為的な破壊では、ないのです。
リスクは発生が他律的であり、いつ起こるかわからない、発生時刻と規模が予想できないといった特徴で区分すべきです。
政府の政策の遅れや、内部の不祥事は、破壊による被害には該当しません。さらに、リスク管理として、立法プロセスや官僚機構の問題までを視野に入れると、「政府の課題」がすべて、リスク管理に含まれます。確かに、官邸が対処しなければならない問題は、すべてリスクになります。しかしそれでは、政治学がすべてリスク学になってしまいます。

組織のリスク、加害者と被害者

昨日、「個人や社会のリスクと組織のリスクは別だ」と書きました。質問があったので、補足します。
リスクとは通常、危険や被害を受ける可能性を指します。すると、会社や自治体(市役所組織)にとってのリスクも、本来どのような被害を受けるかという可能性です。取引先の倒産や、仕入れた原料の欠陥は、このようなリスクでしょう。会社のビルが災害にあうかもしれない、職員の多くがインフルエンザにかかり仕事が続けられなくなるかもしれない、というような場合も、リスクです。
しかし、職員が事故や不祥事をしでかした、作った製品が事故を起こしたといった事案は、会社は被害者でなく、加害者なのです。
このような場合に、おわびの仕方、記者会見の方法も重要ですが、それは、住民や地域が被害を受ける場合のリスクとは別物です。
「リスク」「リスク管理」といった言葉を、あいまいに使いすぎていると思います。これらもリスクに含めるなら、「加害者になるリスク」と「被害者になるリスク」に区別して議論すべきでしょう。