カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

大久保利通の構想力。司馬遼太郎さん

司馬遼太郎著『明治国家のこと』(2015年、ちくま文庫)、「近代化の推進者 明治天皇」p291。
・・山崎正和 ところで西郷が西南戦争で死ぬと、大久保もすぐ暗殺されますね。維新後わずか10数年ですが、もし大久保がもう少し生きていたらというのは、つまらん空想ですかね。
司馬遼太郎 大久保が生きていたら、山形のような小粒が、精神のいじけた天皇制国家をつくるようなことはなかったと思います。大久保は物事については、つねに普遍性を考える傾向があった人物ですから、こんな特殊な国はつくらなかったと思いますよ。同じ天皇という問題をとりあげても、統帥権による軍部の独走ということは許さなかったと、思いますね。
山崎 実は私はそれをいいたかったんです・・・

日本の保守主義、宇野先生の論考

月刊『中央公論』1月号に、宇野重規・東大教授が、「日本の保守主義、その「本流」はどこにあるか」を書いておられます。
・・現代は、「保守主義者」が溢れている時代である。それでは、そのような保守主義者たちは、いったい何を「保守」しようとしているのか。日本の歴史や文化、国家観といったものから、自然環境や国土、家族や共同体、さらには人間の生き方や組織のあり方まで、その内容は実に幅広い。
とはいえ、その中身を深く検討すれば、多くの保守主義者たちの間で、実はほとんど共有するものがないことがわかるだろう・・
として、エドマンド・バークの保守主義(イギリスが歴史の中で作り上げてきた自由を守るための反フランス革命)、明治維新期の保守主義、明治憲法下での保守主義(伊藤博文ほか)、戦後の保守主義(吉田茂ほか)、大平正芳首相の試みなどから、日本の保守主義を解説しておられます(合計14ページ)。一読をお勧めします。
日本ではいつの頃からか、新しいことはよいことで、古いことは「古めかしい」と否定的な評価を受けるようになりました。これは、畳と女房に限らず、新車も鮮魚も新築住宅もです。明治以来政治的にも、「進歩」や「改革」が価値を持ち、「保守」や「伝統」を名乗る政党や新聞社はあまり見かけません。政党や政治家さらにはマスコミが訴える政策も「大胆な改革」であり、「保守」「守旧」といった単語を見ることはありません。
政治や言論の世界で「保守」が成り立つためには、2つの要素が必要でしょう。1つは、対立する勢力・理論として「革新」があること。もう一つは、守るべき「伝統」「価値」を明らかにすることです。
戦後日本では、革新を名乗る党派が社会主義や共産革命を目指し、挫折しつつも、その旗を降ろしませんでした。他方で、軍国主義復活を訴える勢力は、敗戦を経験した国民に支持を受けることはできませんでした。そして、自民党が革新勢力に対する「保守」という位置づけにありながら、改革を進めてきました。「革命」と「改革」のシンボル争い、あるいは路線争いにおいて、保守による「改革」が国民の支持を得たのです。
現在日本において、「保守主義」の対立語は、何でしょうか。ほぼすべての政治家や政党が改革を標榜する中で、そして自民党が改革を主導する中で「保守主義」が成り立つためには、それに対立する「××主義」が必要なのです。これは、政党だけでなく、言論界・マスコミの責任でもあります。
もう一つの守るべき「伝統」も、あいまいです。論者によって異なるのでしょうが、共通理解がないようです。これは、改革側が何を破壊するのかを明確にしないので、守る側も何を保守するかが曖昧になるのでしょう。また、保守主義の位置に立つ自民党や議員が改革を主張する、しかもしばしば「聖域なき改革」を掲げていることも、混乱を招きます。
主要政党がすべて「改革」を掲げる中で差別化を試みるなら、「急進的改革」か「漸進的改革」しかないでしょう。もちろん、特定分野(利益集団)については「守り」、それ以外の分野では「改革」という、利益や社会集団による差別化があります。
国民の多くが、主義や思想より、現世利益・豊かさや便利さを重視する現代日本社会にあっては、生活の安定という「伝統」と経済発展や便利さという「改革」が、同居しています。また、お正月の初詣、お葬式といった生活慣習において、伝統様式と伝統的精神を守っています。政党やマスコミの議論を横目に、国民は日常の生活において、保守と改革を使い分けているのでしょう。
国民にとって、路線争いよりも日々の生活が重要です。これは現代日本に限ったことではないですが。経済がそこそこ良好で、社会が安定し、それなりに幸せなら、主義主張の対立は興味を呼びません。路線対立が先鋭化するのは、その社会の危機(革命時)や社会内の亀裂が大きくなった時でしょう。そう考えれば、現在の日本の政治や言論界で路線対立が盛り上がらないことは、よいことなのかもしれません(同号では、「論壇は何を論じてきたか」という鼎談も載っています)。
この問題は、このような短い記述では議論しにくいことであることを承知で、書いてみました。宇野先生の論文を読まれることをお薦めします。すみません、本屋には、もう2月号が並んでいます。

政治の役割7

14日の日経新聞は、昨日の続き「自民党50年」の中でした。「自民党の政策決定は、結党半世紀を経て大きく変わりつつある。政務調査会の部会、調査会が関係省庁・業界の意向を受けて立案し、最高意思決定機関の総務会で決定するボトムアップ方式が、重要政策では形骸化。首相官邸主導のトップダウンの色合いを濃くしている」。道路族と道路調査会と建設大臣の関係に言及して、「金丸道路調査会長の時は、彼のさじ加減一つで全国の道路一本一本が決まった」。
この指摘も、正鵠を射ています。ただし、この記述にあるこれまでの政策と、現在の政策は同じではありません。今まで立案したのは税金の配分、現在トップダウンで行おうとしているのは負担と受益の決定です。
「これまでの政治は税金配分だった。族議員の活躍は、その資金配分に関与することであった。しかし税収が増えなくなったときに、これまでの族議員の機能は発揮できなくなった」ということでしょう。
だからこれまでは、族議員が力をふるえたし、ボトムアップですんだのです。政治家にとっても、それをお膳立てした官僚にとっても良い時代でした。これは、実は意思決定とは言えません。調整でしょう。私の言う「負担を問わなかった戦後日本政治」です。
しかし、負担を問う時には、ボトムアップではできません。これまでの「政治」は税金の配分。これからの政治は負担の配分です。(11月14日)
(社会が規定する政治と政治学)
先日の記者さんとの会話。
記者:三位一体改革が進みませんね。
全勝:昨日今日だけをみるとそうだけど、この3年間をみるとよく進んだよ。
記:岡本さんは、いつも楽天的ですね(笑い)。
全:建設的、ポジティブと言ってほしいね。3年前、5年前に、兆円単位の補助金廃止と税源移譲を予想した人がいたかい。総理が地方団体に原案作りをお願いしたり、官邸で地方団体代表が閣僚と議論をするって、想像できなかったよ。
記:でも、ここに来て、官房長官が指示した6千億円もほぼゼロ回答だし、生活保護が押しつけられそうだし。3兆円の税源移譲って、実現するのですかね。官僚の抵抗はすごいですよ。
全:最後は、実現するよ。総理の公約だもの。今の小泉総理に抵抗できるかね。そう簡単には進まないけどね。補助金廃止は、50年間続いた官僚主導行政を変えようとしているんだから。大きな流れでみてほしいね。
記:確かに、官僚主導行政と自民党政治も大きな曲がり角にある、そして官僚はそれに抵抗している。そうみれば、大変なことはわかりますが。自民党の方も変わってきていますよね。族議員が出番がなくなって。総務会は全員一致でなくなったし。反対者には刺客が送られ、離党させられますし。
全:そう、自民党も利益配分だけをしていられなくなったんだよね。意見の違うみんなが、なあなあではすまなくなった。小選挙区制が、ようやく利いてきたこともある。
記:さらに、党の方もいろいろ政策を打ち上げていますよ。
全:ただし、政治家が政策を打ち上げれば政治主導になるかというと、そこは少し違うんよ。官僚に代わって政治家が政策を決定するのは政治主導なんだけど、党や個別の政治家がいろいろ指図すると、それは政治主導にならない恐れが大きい。みんなが好きなことを言うと、それを足しあわせると結論が出ない。また、予算の場合は、財源が足らなくなって国債で先送りするんだから。これからは、利益配分の政治でなく、負担を問う政治にするためには、政治主導は一元化しなければならない。それは内閣であって、総理ですよ。
記:数十年に一度の政治変動、革命を見ているとすると、おもしろいですね。
全:そう思うよ。記者さんだけでなく、学者もそうじゃないか。これまでの日本の政治学・行政学は、あまりおもしろくないよね。後世に、これだと言って残せる業績がないんじゃないか。それは政治が政治をしてこなかったからだよ。公共事業・補助金配分と減税や財政投融資が政治だと、研究の対象としては、おもしろくないよね。変化がないと、学問も進まないということかな。(11月20日)
日経新聞は29日と30日と「戦後政治の還暦」を連載していました。上は「二大政党制にかけた夢」、下は「官邸主導、後戻りできぬ道」でした。政党、特に与党のあり方と、官邸主導=官僚主導の終焉、という2つの特徴を取り上げていましたが、分量的にも物足りなかったです。(12月30日)
(2006年)
景気も回復しつつあり、お正月の新聞記事・社説も、穏やかなものでした。テーマは、人口減少と団塊の世代の引退、東アジアとの外交関係に集約され、論争が盛り上がるというより、ポスト小泉予測といった「平和なもの」ばかりでした。(1月4日)
(社会科学の貢献)
10日の日経新聞経済教室「日本復活の進路」に、佐々木毅教授が「文化系知識の重要性増す」「社会変革の基礎に、高等教育への支援拡充を」を書いておられました。
「あるいは、社会システムの現状を見直すことに極めて消極的な社会の場合、社会システムについての学問は、その占める場所を持たないであろう。単純化して言えば、そこでは社会システムの問題はもう『分かっており』『解決済みであり』、役に立つ知識は和魂洋才風に科学技術に求められることになる。こうしたところでは、社会的閉塞感を口にしながらも、必要な処方箋を自ら封印することによって自縄自縛に陥るのは理の当然である」
「日本が長年の経済的・社会的閉塞感から、一息つくことができた要因はなんであろうか・・・。その基礎にあったのは、政策的にも社会的にもほとんど重要視されていなかった人文・社会科学的知識であった」
「こうした指摘を、将来に向かって活用していくためには、次のような視点が大切である。第一に、十年前と比べ、権力構造とその担い手のあり方が大きく変化したことを率直に認め、ガバナンスのより高度な運営のために必要な知識とその深化に対する真摯な態度を社会的に培養することが必要である。端的にいえば、『分かり切ったこと』や『解決済みのこと』といった既成の観念で物事を処理するのではなく、社会の自己改革能力を着実に高めていくための高度の専門的能力に対して、正当な評価を行う習慣を定着させることが必要である」
「社会システムの管理運営の担い手には、現状のルールの誠実な順守が求められることはいうまでもないが、必要に応じて新たな選択肢を示すこともまた、その社会的責務の一部である。例えば、日本の法曹集団はかつてひたすら法律の解釈に全エネルギーを傾けていたが、今や立法作業にも視線を向け始めている」
いつもながら、鋭いご指摘です。日本の官僚は、自らを「世界一優秀」と評価し、また評価された時点で進化を止め、変化する現実への対応能力を失ったのでしょう。また、「日本の制度が世界一」と考えるようになった時点で、改革は行われず、解釈の世界に閉じこもることになります。
それでも、省庁再編・財金分離などを行い、事前指導から事後チェックへ・官から民へ・国から地方へ・官僚主導から政治主導へといった改革が進みつつあります。そのような観念が国民に「常識」として定着しつつあることで、このような変化は止まらないでしょう。もっとも、まだ多くの官僚は「抵抗勢力」に留まり、「新たな選択肢を示す」ことに失敗しています。(1月11日)
(法律の軽重)
国会議員に法案の説明をしています。そこで受けた指摘です。
議員:岡本さん、政府がいくつも法律改正案を提出するのは分かるけど、内容によって軽重をつけられないかね。
全:ええ確かに、国民生活に大きくかかわる法律から、こんなことまで法律で定めるのかというのまでありますね。しかし、権利義務にかかわるものは、政令や省令でなく、法律が必要なんですわ。
議:それは仕方がないとしても、基本法令とその他の法令とに分けた方が、国民もわかりやすいぜ。そして、国会審議も、分けるべきだ。基本法令は国会でも十分議論する、その他の法令は、そんなに審議に時間をかけない。関心ある議員が質問書を政府に出して答えてもらうとか、もっと実質的なやり方があるだろう。毎年100本も法律改正がでる時代なら、それなりの合理化をするべきだ。
全:その主張なら分かります。事前に問い合わせていただければ、十分お答えできる国会質問も多いですからね。かなり、合理化できます。
今は、法律審議でも、本会議で趣旨説明質疑をするもの、その中でも総理が出席する重要広範議案という分類はありますが、これはその他の法令審議を簡素化するのではないですからね。
何でもかんでも同じように審議することで、かえって重要な法案審議にエネルギーを割けなくなっています。また、何が今国会で重要なのかもよくわからなくなります。(1月13日)

現代日本政治、新しい研究成果

砂原庸介・大阪大学准教授が、恒例の「今年の◯冊2014年」を載せてくれました。対象とする範囲は限られていますが、便利な「現代日本政治の研究案内」です。詳しくは、本文をお読みいただくとして、いろんな分野でいろんな角度からの研究が出版されているのですね。私も、紀伊國屋に寄っては、新刊書を確認しているのですが。知らない本がたくさんあります。
ところで、これを読みながら、次のようなことを考えています。これら研究者の成果を、行政(組織とともに、国家公務員と地方公務員)が、どのように吸収しているか。これら研究成果が、どのように行政に反映されているかです。
一つには、個別政策についてです(各論)。そのテーマを担当する行政部局と研究者が同じ方向を向いているなら、簡単です。そうではなく、現行の行政に対し批判的、あるいは方向転換を求める研究の場合です。行政側に、その研究に耳を傾けるだけの度量があるかどうか。自分のやっていることにケチを付けられたくないですし、方向転換は難しいです。すると、各テーマの政策共同体を、どのようにうまく活用していくか。さらには、マスコミや政党・政治家の役割が、必要となります。よって、マスコミの政治部記者にも、勉強してもらいたいです。
もう一つは、もう少し広く、行政のあり方や仕事の進め方について、公務員がこれらの成果を吸収することです(総論)。自分の専門分野に閉じこもることなく、また先輩から引き継いだ流儀を守るだけでなく、新しい行政分野や新しい流れをどのようにして拾い上げるか、視野を広げるかです。
自説の繰り返しになりますが、日本の行政は明治以来の目標(豊かになること、欧米先進国に追いつくこと)を達成し、次の段階に転換することを模索しています。「前例どおり」「お手本どおり」が通じない時代に、新しい方向と手法を考えることが、行政と公務員に求められています。これからの行政の役割や手法、そして公務員のあり方を考える部局はありません。一人ひとりの公務員が、考えなければなりません。新しい研究成果は、マスコミなどからの批判や問題提起とともに、考える際のきっかけ・資料となると思うのです。

リーダーの責任。発言と行動と。不作為を問われる

フォーリン・アフェアーズ・リポート』2014年11月号、リチャード・ハース氏の「解体する秩序-リーダーなき世界の漂流」から。
・・アメリカの覇権は廃れつつあるが、バトンを引き継ごうとする国はなく、今後、現在の国際システムはさらに雑然としたシステムと化していくだろう。国際ルールを守るのではなく、独自の利益を重視する非常に多くの国がパワーセンターにひしめき合い、アメリカの利益や優先課題が配慮されることもなくなる。これによって新しい問題が作り出され、現状の問題を解決するのもますます難しくなる。要するに、ポスト冷戦秩序は解体しつつある。秩序の崩壊はパワーと意思決定メカニズムが分散化していること同様に、アメリカがもはやまともに国際行動を起こさないと考えられていることに派生している。いまや問うべきは、世界秩序が今後も解体していくかどうかではない。いかに迅速に奥深く解体プロセスが進展するかだろう・・
ハース氏は、「なぜ秩序が解体しつつあるかのか。そこには構造的理由と意思と決断に派生する理由がある」として、アメリカ、オバマ政権の言動を批判します。イラク、エジプト、リビア、シリアで、発言しながら中途半端な行動しかしない大統領に責任があるというのです。
・・(大統領の)レトリックと行動とのギャップが、アメリカの信頼性を損なったことは言うまでもない・・
・・要するに、3つのトレンズが重なり合うことで、秩序の解体が起きている。国際的パワーが非常に多くの、しかも多様なアクターに分散していること。アメリカの政治・経済モデルのソフトパワーが、大きく低下していること。そして、中東政策を含むアメリカの政策上の選択が、ワシントンの脅威をめぐる判断、約束に関する信頼性への疑問を高めてしまっていることだ。相当大きなパワーを温存しているにも関わらず、アメリカの影響力はいまや失墜している・・
・・秩序の崩壊はパワーと意思決定メカニズムが分散化しているだけでなく、アメリカがネガティブに捉えられ、本気で国際行動を起こさないと考えられていることに派生している。いまや問うべきは、世界秩序が今後も解体していくかどうかではなく、いかに迅速に奥深くそのプロセスが進展するかどうかだろう・・
他方、同じ号で、エリザベス・エコノミー氏が「すべての道は北京に通ず」で、次のように指摘しています。
・・習近平・中国国家主席は「中華民族の偉大なる復興」というシンプルながらも、パワフルなビジョンを明確に表明している・・一方で習近平のビジョンは彼の危機感も映し出している・・グローバルな経済大国としての地位を確立しながらも、その実力に見合うような影響力を行使できていない。リビアとシリアの混乱への対応を怠り、隣接するパートナーであるミャンマーと北朝鮮が政治的変化に翻弄されるのを傍観している。この事態を前に、専門家の多くは、中国は包括的な外交戦略を持っていないのではないかと考えるようになった・・