カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

本能

小原嘉明著『本能―遺伝子に刻まれた驚異の知恵』 (2021年、中公新書)を読みました。本能とは何か、昔から気になっていました。
ウィキペディアでは「現在、この用語は専門的にはほとんど用いられなくなっている」とも書かれています。でも、昆虫や動物が親から教えられなくても、歩いたり飛んだり、餌を取り、生殖します。学習しなくても、複雑な行動をすることは、本能なのでしょう。

この本には、いくつもの驚くような行動が書かれています。しかし、まだまだわからないことが多いようです。長い進化の歴史の中で、それぞれの種が身につけたのでしょうが。遺伝子や脳の働きといった「仕組み」の解明は進んでいません。「まだわからないことが多いのだな」ということがわかりました。

本能という言葉が避けられるようになったのは、人間の行動や性格を、十分な根拠もなく「本能だから」と説明したからではないでしょうか。科学的に解明されていないことを、不正確な俗説で決めつけるのは、話は早いのですが、有害な場合もあります。

モノとコト

モノとコトという表現、あるいは「コト消費」という言葉を、聞かれたことがあるでしょう。でもコトって、何の意味かわかりますか。いろいろ考えてみました。専門家はまた違った解説をするのでしょうが、門外漢の私の理解を説明しましょう。

まず「コト消費」から。
ウィキペディアによると、コト消費は「一般的な物品を購入する「モノ消費」に対し、「事」(やる事・する事、出来事=出来る事)つまり「体験」にお金を使う消費行為のことで、特に非日常的(アクティブ)な体験が伴う経済活動を指す」とのことです。
体験型の消費とは、一方的にサービスを受ける、例えば散髪などと異なり、消費者が参加する体験型のサービス商品ということでしょう。
でも、そのような視点から商品を分類すると、モノとサービスがあり、そのほかに権利とか情報なども商品として扱われます。このサービスの中から、体験型の商品を特に「コト消費」と名づけたのでしょう。商品として売る際には、わかりやすいのでしょうが。

かつて、社会学の先生に、その違いを教えてもらったことがあります。「モノ」と「コト」の区別は、もともとはアリストテレスなどにある言葉だそうです。人間の外に実在するのが「モノ」、人間の心の中にあるものが「コト」で、過去や未来、観念などです。
それはひとまず置いて、現代社会を観察する際のモノとコトの区別は、私の理解では次の通り。
質量があるのが「モノ」、質量がないのは「コト」。コトとは、モノとモノの相互作用のこと。

社会科学は、「人(個人)とその関係」を研究します。モノに当たるのが「人」で、コトに当たるのが「人と人との関係」です。
自然科学、特に物理学では、対象を物質と運動に分解して考えます。物質がモノで、運動(これも物質間に働く力で関係と見ることができます)がコト。
厳密な科学的説明ではありませんが、私たちが世間を理解する場合には、このような切り口が有用でしょう。

社会の意図した変化と意図しない変化2

社会の意図した変化と意図しない変化」の続きです。
意図して変えた社会の変化には、政府などが主導してつくってきたものと、住民たちがつくったものとがあります。指示の主体が明確なんものと、そうでないものです。

教育内容は、政府が決めています。それによって、国民の知識やものごとの判断基準ができあがります。ごみの分別収集は、自治体が決めています。国民や住民はそれに従っています。この場合は、方向性がはっきりしています。宗教団体による教化も入れておきましょう。
これに対し、住民たちが意図して作ったものは、挨拶をするなど、地域の風習であり、気風です。民度にもなります。だれがどのように主導したかが明確でない場合が多いです。
一部の人や一部の地域で「このようにしましょう」と始まり、広がっていくのでしょう。地区の祭りや共同清掃。エレベーターの片側を急ぐ人のために空けておくこと(最近は、鉄道会社が「手すりにつかまって、歩かないでください」と呼びかけています)。

人間関係だけでなく、例えば街並みの景色も同様です。各建築主が、住宅や事業用の建物を建築します。それら建物は、(建築基準法の下で)それぞれの建築主と依頼を受けた設計・施工者の意図によって建てられます。そこには、設計があります。
では、それらが集まった街並みはどうか。それは、設計によってはできていません。(都市計画法の規制の下で)形や色彩、風合いが異なる建物が並んでいます。かつての、建築技術や素材が発展していない時代なら、その土地での共通した建築物が並びました。しかし、技術と素材の進化は、さまざまな建物を可能にしたのです。

さて「公共を創る」に戻ると、農村や発展途上時代に作られた私たちの考え方や風習は、成熟社会には適合しません。自由だけど孤独な暮らしに対し、どのようにして安心を確保するのか。成熟社会に適合した考え方や通念はどのようなものか。そして、風習や気風を、どのようによい方向に変えていくか。

なお、個人個人の意図は悪くないのに、それを積み上げると全体の結果が悪くなる場合は、経済学では「合成の誤謬」と言い、政治学では「部分最適が全体最適にならない」と表現します。参考「作為の失敗、不作為の失敗
少々まとまりの悪い文章になりましたが、ひとまず載せておきます。

社会の意図した変化と意図しない変化

連載「公共を創る」の一つの主題は、昭和後期と平成時代に社会が大きく変化したのに、行政と私たちの意識がそれに追いついていないことです。それが、社会の不安を大きくしていると考えています。では、社会は、誰が、どのようにして変えるのか。
それを考えると、しばしば「社会の変化」と言いますが、その中に二つのものがあることが分かります。私たちが意図して変えたものと、意図しないで変わったものとです。

丸山真男先生は、「自然と作為」と表現されました。
人が意図しなくても変化した場合に、「自然に変化した」と言います。例えば、核家族化が進んだ。少子高齢化が進んだ。高学歴化になったなどです。しかし、このような社会の変化は、各人が選択し行動した結果の積み上げですから、この表現は不正確です。
では、「自然に変化した」社会の変化を、どのように表現するか。対になるのは、「意図して変えた」です。すると、「自然に変化した」は「意図せずに変わった」ということでしょう。この場合でも、各人はそれぞれに判断し変えてきたのですから、意図しています。しかし、社会全体でその方向に変えるとは意図していなかったのです。

「設計の思想」と「生る(なる)の思想」と、表現してもよいでしょう。設計の思想とは、あるモノや状態を意識して作り出すことです。デザインや計画とも言い換えることができます。これに対して、生るの思想は「放っておいたら変わっていた」です。設計者がいるのと、いないのとの違いです。 社会全体の変化について、設計していないのに、変化したのです。参考「社会はブラウン運動1 人類の進化は偶然の積み重ね」「デザイン思考、あるいは商品としての言葉
この項続く

「富士山噴火 その時あなたはどうする?」

鎌田浩毅先生が、また新著を出されました。『富士山噴火 その時あなたはどうする?』(2021年、扶桑社)。早速、アマゾンでは、防災分野でベストセラー第1位になっています。

なかなか刺激的な表題です。しかし、歴史を見ても、避けられない災害です。その時あなたはどうするか。本書では、最初に漫画が出てきます。わかりやすいです。
小規模な噴火と火山灰は、私は鹿児島で桜島の火山灰を経験しました。たぶん、富士山噴火とは比べものにならない量なのでしょうが、生活に支障を来します。
東京が被災地になることは、これまでの災害とは違った影響を持ちます。
一読をお勧めします。

鎌田浩毅先生は、相変わらず精力的に活動しておられます。