契約社会と帰属社会

吉見俊哉著『トランプのアメリカに住む』p92「シラバスは学生との契約書」の下りを読みながら、アメリカ社会と日本社会のなり立ちの違いを考えました。

・・・渡米の数か月前、最初に苦労したのはシラバス(授業計画)の作成だった。今回の授業のために、私は英文で10頁に及ぶ詳細なシラバスを作成しなければならなかった。毎週、それぞれ何を目的にどんな素材を扱うかを明示し、三本程度の英語の課題文献を詳細に指定するのである・・・日本の大学のシラバスはせいぜい1頁、15週分のテーマを並べて終わりだから、この日本の差は歴然としている・・・

・・・授業が始まってからも、シラバスは決定的な意味を持ち続ける。授業は最初にに書いたシラバス通りに進み、大幅な方針変更はNGである。教師だけでなくTA(ティーチング・アシスタント)も学生も、シラバスに従って準備を進め、毎週の授業が進められる・・・だが、ハーバードの同僚に聞くと、皆口を揃えて「シラバスは学生との契約書」だと言う。教師はシラバスで提供する授業の内容を詳細に示し、学生はそのシラバスを見て授業の受講を決めるのだから、その時点で両者は契約を結んだことになる。教師も学生も契約違反はできない。教師が契約内容を変えて別のことを教えるのはご法度だし、学生も契約通りにレポートを出さなかったら落第となる・・・

・・・アメリカ生活が長い人々には、おそらくこのメタファーがぴったり来るのだろう。とにかくアメリカは社会契約によって成り立っている社会である。しかし、「学生との契約」という観念がそもそもない日本の大学教師にとって、この解釈は今ひとつピンとこない。正直、教師と学生の関係は社会契約的なものではなく、もっと共同体的なものではないかと思いたくもなってしまう・・・

なるほどと思いました。この項続く