カテゴリー別アーカイブ: 歴史遺産

小沢晴司さんの回顧2、環境省職員の苦労

10月27日から東京新聞で始まった、小沢晴司さんの回顧「ふくしまの10年・地図に残してはいけない仕事」。放射性物質を取り除く「除染作業」が始まった頃の苦労が書かれています。

・・・東京電力福島第一原発事故から1年半後の2012年9月に開かれた避難住民への説明会。環境省の現地責任者として出席した小沢晴司さん(59)は、あらためて住民の怒り、国への不信感に直面した。
「怒号が飛び交い、厳しい視線にさらされる中、事故を発生させたことを国側責任者の副大臣と一緒に謝罪し頭を下げました。エネルギー政策だから、関係ないなんて言っていられませんでした」・・・(10月30日 怒りや不信感に直面

・・・国への不信感を募らせる避難住民に、家屋の除染に同意してもらったり、削り取った汚染土を仮置きする場所を提供してもらったりするのは一筋縄ではいかなかった。
「朝五時に事務所を出て、遠隔地の避難住民を訪問するのですが、同意のはんこをもらえず深夜事務所に戻ってきた職員のなかには、疲労と焦りから机をたたいたり、いすを引き倒したりして苦しむ者もおりました」・・・(10月31日 住民も職員も苦しんだ

小沢晴司さんの回顧

10月27日から、東京新聞で、小沢晴司さんの回顧「ふくしまの10年・地図に残してはいけない仕事」が始まりました。
小沢さんは、記事にあるように、環境省の役人でした。現在は退官して、学者になっておられます。

小沢さんは、元々は自然環境保護が専門です。ところが、原発事故が起きて、放射性物質の除染に携わることになりました。もちろん、世界で初めてのことです。そして、環境省には、そのような土木行政の経験がありませんでした。地元からの厳しい声、手探りの仕事でした。
当初から一緒に仕事をした、同僚です。この連載では、その苦労を聞けると思います。

井上義久・公明党副代表、復興にかける意気込み

10月13日の公明新聞に、井上義久・公明党副代表、大震災復興加速化本部長のインタビューが載っていました。
井上先生は、政権復帰後から引き続き、公明党の復興加速化本部長を勤めておられます。大震災復興については、自民党と公明党による提言が毎年なされ(初期の頃はもっと頻繁に)、復興の方向性を示してもらっています。
この仕組みを作られたのは、大島理森・自民党復興加速化本部長(当時。現衆議院議長)と井上先生です。毎年被災地を訪問して現状を把握される他、各省の官僚が、時には被災地の関係者が呼ばれ問題点を議論します。ここまで復興が進んだのは、この与党提言の要素も大きかったのです。政治主導の一つの形だと、私は考えています。

・・・被災地では、インフラの整備や街づくりが着実に進められてきました。住民の足となるJR常磐線が全線開通し、復興道路として仙台市から青森県八戸市までをつなぐ三陸沿岸道路も完成しつつあります。津波で壊滅的な被害を受けた地域も、かさ上げが進んで住宅や商業施設などが建ち並ぶようになり、徐々に活気が戻ってきました。
ただ、東京電力福島第1原発事故で被災した地域と地震・津波の被災地域とでは、復興の進捗にばらつきがあるのが実情です。「第2期復興・創生期間」では、そうした地域ごとの課題と引き続き向き合い、解決に取り組む必要があります。
(今年9月の)提言では、被災地全体の課題として「心の復興」を明記しました。被災者一人一人が希望を持って人生を歩んでいけるよう、心のケア事業などの継続を訴えています・・・

・・・どんな災害であっても、復興するという意志があれば、またその意志を継続できれば、復興できるというのが私の確信です。
しかし、担う人も変わります。政治にとって大事なことは、強い意志を持続するための、「法律と組織」を整備することです。
その意味では、公明党の提案で復興庁を設置し、復興基本法、復興特区法、福島復興再生特別措置法などの法律を作ってきたことは復興の大きな原動力となりました。今年の通常国会でも、復興庁の設置期限を10年間延長させる改正法などが成立しています。
福島の再生をはじめ、復興には長い時間がかかります。法律と組織をしっかりと作り、これらに、どう魂を入れていくのかが重要です・・・

桜井勝延・前南相馬市長「避難指示、連絡なかった」


10月5日の福島民友新聞に、桜井勝延・前南相馬市長の原発事故直後の証言が載っていました。「避難指示、連絡なかった」。原文をお読み下さい。

・・・翌12日、第1原発1号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、政府は原発から半径20キロ圏内に避難指示を出した。「20キロ圏内ってどこまでだ」。テレビで知った桜井や市職員は地図を広げて見当をつけ、避難所などに身を寄せていた20キロ圏内の小高区の住民の再避難を始めた・・・
・・・ 政府は15日、3号機の爆発を受け半径20~30キロ圏内に屋内退避を指示した。避難を本格化させようとしていた矢先に物流が止まった。鹿島区は30キロ圏外だったが、すでに市内全域で市民生活が困難な状況となっていた。桜井は全市での避難を決断し、16日に新潟県への緊急避難計画を策定した・・・
・・・その後、桜井は政府文書を開示請求する。桜井が目にした「20キロ避難指示」の文書には南相馬と書かれておらず「屋内退避指示」の文書に、その文字を見つけた。「いずれにせよ、(政府からは避難の)連絡なんてなかった」。桜井はつぶやいた・・・ 

肝冷斎復活か

2週間近くも無断休載していた「肝冷斎日録」が、復活したようです。今回は、パソコンの不調でなく、庵主の事情のようです。野外調査も野球観戦も、していなかったと思われます。
再開第一号は、滅んだものを偲ぶという趣旨のものです。このような心境なのでしょうか。いずれにしろ、よかったです。