カテゴリー別アーカイブ: 肝冷斎主人

中国古典に興味を持っていて「肝冷斎主人」と名乗っています。彼も元私の部下です。著作の一部を載せます。絵も彼の作です。長編がいくつもあるのですが、HPには不向きなので、短編を載せます。画像の処理は、渡邊IT技官・清重IT技官の協力を得ています。
肝冷斎は、自らHP「肝冷斎雑志へようこそ」を立ち上げました。ご覧ください。

都会は冷たくてコワい

「それは言い逃れだよ。とにかく謝りなさい」と先生が諭しますが、なんと地仙ちゃんは、「町のみなちゃまー、聞いてくだちゃい、せっかく地仙ちゃんがカミナリちゃんを鍛えてあげようとしたのに、センセイが注意するの。過保護でヒイキなのー」と大声で叫び始めました。なんとかして責任逃れをしようという狙いのようです。
しかし、町のひとびとは忙しいのでしょう、地仙ちゃんがぶうすか騒ぎましても誰も相手にしません。かえって「うるさいコですね」「イナカモノみたいザマすコト」と冷たい視線を浴びせるのでした。
「う~ん、道行くひとびとの同情を引こうという作戦でちたがチッパイでちたね。都会の人たちは冷たくてコワいのね」と地仙ちゃんは失敗を認めました。
「イナカのひとたちがあったかくてヤサしいか、というとまた難しいけどね。都会、というのはもともとはいくつかの「都」の会うところ、という意味なんだ。
「都」は①「者」(正字は点が付く)とオオザトというツクリから成る。「者」という字は、主格を示す助辞に転用されたので「モノ」(主格と成り得るニンゲンとかを指す場合に使うね)と訓じるけど、本来は「堵」(かき・土塁)という字があるように、おマジナイの書付を入れたハコ(曰)を土の中に埋めて、外界との境界にしたものを言うんだ。

ツクリのオオザトはコザトヘンと同じ形象で②「邑」(ユウ)という字。「邑」は、「場所」を示す四角の下に、ひとが正座している姿を描いたもの。普通に人がいるのではなくて正座(古代では「跪座」という)しているところがポイントで、正座は年齢の上のひとの前に座るときの礼儀だったから、「邑」は単なるひとの集まりではなく、社会的な序列のある集団だということがわかる。要するに寄り合いなどの礼儀・秩序を有する集落ということ。
ということで、①の「者」(堵)で境界を設けて外部のマガツモノを排除した②「邑」(村落)を「都」というんだ。「都会」とはそういう「都」が固まって存在している状態を言う。(なお、伝統的には「君主の御霊屋(宗廟)のあるのを都といい、それ以外を邑という」(春秋左伝荘公28年)と区別される)
「都」の対語は「鄙」(ヒ)だけど、この字の左側③(これもヒと読む)は場所を示す四角と、稲束あるいは倉庫の象形から成る。主君から給与される穀物のことを「稟」(ひん)、これを蓄える倉庫のことを「廩」(りん)というのだが、③はこれらと同じ系統の文字で、もともとは王族や臣下の俸禄とされた農村(荘園)を言った。さらにこの③の場所を平面(□)に描いた絵(荘園の地図)を④「図」(ズ)という。
「鄙」は王族や臣下の荘園だから王の直轄地にある「都」の比較の対象になり、卑しいとか度量が狭いとかオロカとかいう意味に使われるようになった。ジブンの意見のことを「鄙見」という(卑見とも書く)。また、シモジモの間という意味にもなり、「鄙諺」といえば「俗に言う」というような意味で「史記」の有名な「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんていうのも鄙諺として紹介されている(蘇秦伝)」
「なるほど。都会は外界との間にカキネを設けて、外部のイナカモノを排除するコワいところなのね。では、都会のひとたちを味方につける作戦はもうやめるの」と、地仙ちゃんも都会の冷酷さに納得したようです。

ボカンと殴る

地仙ちゃんに殴られたカミナリちゃんのアタマにはコブができてしまいました。
「ひどいことをするなあ。いいかい、ただでさえ地仙ちゃんのパンチは強いんだから、ちょっとしたことで他人を殴ったりしちゃダメだよ」
さすがの地仙ちゃんも少しだけマズいことをしたと思っているのでしょう、ニコニコしたままです。言い訳とかできないと思うとニコニコしてゴマカそうとするのです。
「ゴマかそうとしているね。・・・ゴマカすというコトバは、胡麻化すとか誤魔化すとか書くけど、江戸時代後半に日本で成立したコトバで、語源はあまりはっきりしない。
当時ニホン国内の托鉢僧であった高野聖が、ただの灰を「弘法大師の焚いた護摩の灰」だと言って売り歩いたらしくて、ここから他人をだます人のことを「護摩の灰」と言ったそうなのだが、「大言海」という日本語の辞典によれば、「護摩の灰のようにだまくらかす」のでゴマカスというようになった、と説明してあるけど・・・」
地仙ちゃんはワガママですから、叱られたのが気に食わないようです。「ちょっとやりすぎただけでちゅのに、アタマごなチにガミガミ言わなくても・・・」と、ほざいています。
「なに言ってるんだ。・・・二度と理由もなくナグらないようによく言い聞かせておかないといけないね。この際なので解説すると、「ナグる」と訓じる①「殴」という文字は、もともとかなり神聖な儀礼行為を示す文字だったんだよ。右側の「殳」はルマタといわれる部首で、武器のホコと思われる棒を手に持って、打ったり叩いたりする姿だ。

左側の「区」は、正字では、右側の開いた大きなハコ(匚・ホウ)の中に、三つの小さなハコ(口)が入っている、という形象。この小さなハコには呪文を書いた紙切れが入れられている。要するに、この大きなハコは聖なるモノの隠し場所(他にも矢を隠した「医」、斧を隠した「匠」などがある)で、そこに神様への誓いのコトバを小さなハコに入れれて、きちんと並べて保管している、というのが「区」のもともとの意味なんだ。
「区」の字は、小さな呪文箱を大きなハコのしかるべき場所にきちんと並べることから「区画」「区分」「区別」という意味に使われる。「区」の入っている文字を見てみると、例えば「駆」は、元来はおマジナイ箱と馬を組み合わせて、道にいるワルいモノを追い払う(駆逐、駆除)という意味の文字だったらしい。
また、近代では「欧州」という当て字に使う
②「欧」は、こういうハコを前にして「アクビ」をしているという文字だが、眠くてアクビしているのではなくて、「嘔吐」の「嘔」と同じく、もともとは口を大きく開けて、呪文を唱えていた姿だろう。そのような呪文は節回しを伴っていたと思われ、③「謳」という字は「謳歌」と熟して歌を歌う、という意味になった。
さて、このようなおマジナイのチカラを持つ「区」というハコをホコで叩くことによって、本来持っているおマジナイのチカラをさらに強める、というのが「殴」という文字が表している儀礼なんだ。ずいぶん前に「方」の字で、首吊り死体を打つことで呪力を強めるハナシをした。漢字には、他にもいろんなモノをナグる字がある。ナグられているモノは神聖な呪力を持つモノばかりなので、どんなモノをナグっているか興味深いところなんだけど、ヘタに地仙ちゃんが真似しないように、別の機会に説明しよう」
「あたちはカミナリちゃんのおマジナイのチカラを強くしてあげようと思っただけなの」などと地仙ちゃんは言い訳を始めました。

町と村についても解説する

地仙ちゃんはもう文字のベンキョウには興味を失っているのですが、先生は続けます。
「「市」以外の基礎的な地方政府は、ニホンでは「町・村」だけど、チュウゴクでは、「郷・鎮」という。省の下に農村部の県と都市部の市があり、この県の下に「郷」と「鎮」がある、というシクミだ。(注:直轄市などもあり現実にはもう少し複雑)
①「町」という字は、本来行政とは何の関係も無くて、②「田」と③「丁」から成る文字。「丁」はクギとかクイのアタマの象形文字とされ、「町」は田んぼをクイ等で区切ったあぜ道のこと。あぜ道の性格から、「町」は、「一町」とか「三町歩」とか、距離や面積の単位としても使われる。

さて、もともとイネは照葉樹林帯文化における低湿地用の補助作物だったそうだが、チュウゴクの長江沿岸で、あぜ道で区画された平坦な土地に用水を引いて人工的に低湿地(水田)を造り、そこに苗代で育てたイネを移植(田植え)栽培する「水田耕作」という技術革新がなされてから、東アジアの主要作物となったといわれる。
この技術革新は、華北の黄河流域の文明からの影響と考えられ、おそらく別の作物に関する「区画された耕作地」があって、それを参考にしてイネを育てる「水田」というモノがハツメイされたのだろうと推測される。
つまり、漢字のもとを作った時期の華北のひとたちにとっては、「田」は、イネを育てる水田とは別の「区画された耕作地」を現す文字だったようだ。なお、「田」を「狩猟」の意味で使うことがあるが、これは「畋」(デン)の「仮借」。
あぜ道を意味する「町」がニホンでタウンの意味になったのは、何かと何かの間の道のことをニホン語では「マチ」(間路)と言ったそうで、これにあぜ道を表す「町」の字を当て、その後道路と道路の間や周囲にできた市街区も「マチ」とよぶようになり、同じ「町」という表記を用いたためだという。行政区の「町」はニホン独特の使い方なんだ。
ところで、「村」(正字は④「邨」)という文字は、古くからイナカの里を指すコトバとして使われている。チュウゴクには今でも住民の自治組織の一種として「村民委員会」というのがあるが、この「村」というコトバをチュウゴクではイヤがるらしい。「通俗篇」という本に「世の鄙陋なる者は、「村」をもってこれを目す」と書かれているように、たいへん見下した意味を持つコトバとして使われてきたんだ。現代チュウゴクでも「農村戸籍」を持っているひとが進学したり出世するにはいろんなハードルがあるらしい。都市と農村を区別する風が強く、イナカモノに対してはすごく厳しいお国柄だと言う」
「イナカモノは恥ずかしいでゴザイまちゅものね」と言いながら、地仙ちゃんは自分でもきょろきょろしているのに、
「ナニきょろきょろチているの? オノボリさんみたいでカッコ悪いではないの」とエラそうにカミナリちゃんに注意しました。
「ピリピリ」(そういう地仙ちゃんだって・・・)とカミナリちゃんが反論したら、なんということでしょう、
「あたちはいいの! うるさいの!」
とカミナリちゃんをぼかんと殴ったのです。先生が慌てて止めましたが、なにしろ強い地仙ちゃんのパンチです。普通のコドモなら失神してしまうでしょう。さすがにカミナリちゃんは失神しませんが痛そうで、「ぴー」と泣いています。
地仙ちゃんは大食い大会に優勝して、いい気になってしまっているのかも知れません。

市はトゲトゲと関係がある

「おかげさまで金陵のやつらをぎゃふんと言わせることができました。ありがとうございました。これはホンのお礼にございます」
大会が終わった後、もともと推薦してくれた食堂協会のひとから、一部地方だけの「特別タダ食い券」を追加で三枚もらえたので、地仙ちゃんのご機嫌も直りました。
「うふふ、ぼろもうけちたの。さて、帰りまちょうか」と喜んでいます。先生はニガムシを噛み潰したような顔をしまして言いました。
「おいおい、まだ帰るわけにはいかないよ。もともと地仙ちゃんが悪さばかりするので地主の陳さんから追い出されることになって、兄弟子の肝冷斎に引越し代を借りようと思って訪ねて来たんじゃないか。・・・おカネのことはオトナのことだから、地仙ちゃんはどこかでカミナリちゃんと遊んでいなさい」
先生は一人で肝冷斎のところに行こうとしたのですが、「そうでちたっけ。忘れてまちた。・・・でも、地仙ちゃんも肝冷斎のところ行く~」と言って聞きません。地仙ちゃんは、ヘンなひとやモノに強い興味を持つコです。変人の先生のトモダチである肝冷斎はオモシロそうだ、と思っているので見逃せないのです。
「しかたないなあ・・・。オトナの話し合いに行くのでコドモはジャマなんだけど」
先生は仕方なく地仙ちゃんとカミナリちゃんも連れて行きます。
大食い大会の会場は市街の中心部にあったのですが、肝冷斎の住所は郊外になっていますので、先生たちは市街地を歩いて行きます。
「へー。にぎやかな市街地でちゅね」
「そうだね。・・・①「市」という字は、木に標識(「止」のマーク)が付けられているカタチで、この地点が「聖なる場所」であることを示す標識なんだよ。この「市」という標識が立っている場所は、日常的なルールが適用されなくなる場所で、「歌垣」が行われて自由恋愛の場になったり、所有関係に変動が起こって「交易」の場になったりする。そういう「市」の立つ場所が繁華街になり、「シティ」の意味も持つようになったのだ。

さて、この標識のカタチ「市」は、②「朿」(シ)という字の中にも入っている。この字は今は「トゲ」という意味になっているが、本来は「市」という標識に横棒がもう一本ついているフクザツな標識。増えた横棒がトゲという意味になったのだろう。
この字に「刀」を付けると③「刺」になる。この字は「刺す」という意味のほか「名刺」のようにシルシになる札を指すにも使われ、「朿」の本来の意味を垣間見せる。ちなみにチュウゴクでは「名刺」は漢の時代から使っていたらしい。当時の名刺は木でできていて、その都度返してもらうものだったようだ。
「刺字漫滅」というのは、名刺をフトコロに入れたまま出さないでいたので表面の文字が磨り減ってしまった、という禰衡(人名)の故事(後漢書)から、気位が高いなどの理由で人付き合いを避けることを言う。
また、地方の知事さんのことを美名で「刺史」というのは、もともと漢代に中央の命令を郡県に伝えて督察する中央の役職を「刺史」といった(この場合の「刺」は「そしる」という意味が近い)のだが、後にそれを州の太守に兼ねさせたため、太守の別名となったんだよ」
「へー、ちょうでちゅかあ、はいはい、そうね~」
はじめて見る大都会です。地仙ちゃんは先生の説明などどうでもいいようで、珍しそうにきょろきょろしています。

ぶすーとする

さて、今度は副賞の授与式です。
「ご承知のとおり、優勝者への副賞はチュウゴク食堂連盟のただ食い券十回分です」
これはすごい。チュウゴク中の連盟加盟料理屋さんでただ食いのできる券が十枚ももらえるのです。しかし、大会役員は続けました・・・
「・・・が、地仙さまには七回分のただ食い券を差し上げます」
どうやらただ食い券が三回分減らされるようですよ。
「どうゆうコトなの? どうちて三回分もらえないの? リフジンなのっ!」
もちろん、地仙ちゃんは大反対です。なにしろクイモノのことですので、回りの目など気にしていられません。大会役員に抗議しました。
「えーとですね、あの、地仙さまはですね、最後に貴重なドンブリをかじってしまったので、その分の弁償として三回分を差し引かせていただいたのです・・・」と大会役員に説明されてもオサまりませんでして、ぶすーと膨れました。
「おほほ、フグみたいになりましてわいな」と碧霞元君は大喜びです。
「はあ、フグですか。「フグは海のサカナじゃないか。なぜ「河の豚」と書くのか」と怒るひともいるかも知れませんので解説しておきます。「本草綱目」によれば「フグは淮河、長江、その他の河や海どこにでもいる。呉・越の地方にはタイヘン多い」と書かれていまして、長江の下流域から福建地方にかけてフグだらけで、淡水でもたくさんとれたのです。なぜ河の「ブタ」かというと、その肉が美味でブタのようであるからだそうです。
なお、「江豚・海豚」と書かれるイルカは長江や海にいて、ブタのようにぶうぶう鳴くので「豚」と言う、とのことですね。
ところでフグといえば、蘇東坡がその美味を褒めて「一死に値す」と言っていますように、おいしいけど猛毒があるので有名です。
この「毒」というのは女性に関わる字なのでして、①「母」が字に入っていますね。「母」というのは、「立派な女性」という意味の文字でして、その一族の祭祀をつかさどるオンナ司祭ともなります。

オンナ司祭として、普通の髪飾りをつけているときは②の「毎」になり、さらにたくさん髪飾りをつけると③「毒」になるわけです。女司祭さまが飾りをつけて神さまのマエにかしづくときの姿が「毎」(もともとは「敏(さと)い」という意味です)、飾りすぎた姿が「毒」ということでして、「濃厚」とか「~過ぎる」という意味で使われていました。
その後、毒草を表す「トク」という字(クサカンムリに「副」)の代わりに使われる(いわゆる「仮借」)ようになりまして、「毒薬」の「毒」の意味になったのです。
なお、「毒」の日本語の訓のひとつに「ぶす」という読み方がありますが・・・」
「なんじゃと? ブス、とはなんじゃわいな」
「ぶす」というコトバを聞きますと、今度は碧霞元君がぶすーと膨らみました。
「あ、いや、あの、その、これはオンナの飾ったのが「ブス」という意味ではなくて、猛毒を持つ毒草「フシ」(附子)に「毒」の字をあてたからと言おうとしたので・・・」と先生はおろおろしています。(なお、女性のブスの語源は「附子のように毒がある」説のほか、江戸時代に、長崎に来たチュウゴク人が女性の品定めをする際、不合格という意味で「不是」(プウシィ)と言ったからだ、という説もあります。念のため)