カテゴリーアーカイブ:政治の役割

政治家で見る歴史

2017年12月24日   岡本全勝

塚田富治著『近代イギリス政治家列伝ーかれらは我らの同時代人』(2001年、みすず書房)を読みました。別の件を調べていて、たまたま見つけたのです。
16世紀末エリザベス女王の時代から、17世紀後半チャールズ2世の時代までの、国政を動かした政治家6人の簡単な伝記です。取り上げられた政治家は、クロムウェル以外は、知りませんでした。
エリザベス女王が子がなく死んだ後、平和裏にスコットランド王ジェームズを国王に迎えます。ピューリタン革命で、チャールズ1世が処刑され、クロムウェルが権力を握ります。しかし、彼の死後程なくして、王政復古になります。その歴史は、国王と国民の意識だけで動いたのではなく、政治家たちの活動が導いたものです。

歴史の教科書では、事件と王様の交代は学びましたが、その政治を動かした政治家たちの活躍までは学びません。しかし、時代は自動的に進むのではなく、経済の発展だけが社会を変えるものでもありません。王の意向、国民の意識、社会経済の変化の中で、政治家たちが舵取りをし、あるときは安定と発展をもたらし、あるときは停滞、凋落、さらには戦争や革命を招きます。

それぞれの政治家は、自らの野心や目指す政策をもって、政治に当たりますが、思うようにはいきません。国王の信頼、議会の同意、国民の支持、外国との関係、財源不足などが、彼の選択肢を狭めます。さらに、ライバルとの戦いなど、権力を維持することに時間と力をとられます。それらの人と思惑、勢力のせめぎ合いの結果が、政治なのです。歴史は、後世の人が歴史書で学ぶように、簡単には進みません。
大衆だけで政治が進むのではなく、また一人の政治家だけで進むのでもありません。複数の政治家がどのように権力を争い、政策を争い、国民や政党の支持を取り付けて進めていったか。そのような視点からの見方が重要です。
この項続く。

砂原庸介教授、国政と地方政治の関係

2017年12月19日   岡本全勝

昨日、砂原庸介教授の大佛次郎賞受賞を紹介しましたが、今朝(12月19日)の日経新聞経済教室「二大政党制を考える」で、「首長党の出現で競争激化」を論じておられました。
・・・民主党が衰退する一方で、10年代に存在感を増したのは地方自治体の首長が結成に深く関わる「首長党」ともいうべき地方政党だ。特に注目されたのが、橋下徹氏が率いて大阪府議会で過半数の議席を獲得した大阪維新の会、河村たかし氏が名古屋市議会のリコール(解散請求)の過程でつくりだし市議選で躍進した減税日本、そして小池百合子氏の下で東京都議選で大勝した都民ファーストの会だ。
これらの地方政党は日本維新の会、日本未来の党、希望の党という国政政党に関与する形で衆院選に候補者を立てた。だが野党第1党だった民主党・民進党に代わり、自民党に対抗する二大政党の一つになったわけではない。むしろ野党勢力を分裂させて、衆院選での自民党・公明党の大勝を助けたとの批判もある・・・

・・・現状を考えると、以前の民主党のように都市部で野党が育つのは難しい。乱立する地方政党は都市一般というよりも特定の自治体の利益を重視する傾向があるし、自民党が以前と異なり都市を重視する政策を打ち出していることもある。他方で、実績のない野党が安定して自民党を支持してきた農村部から支持を広げるのは困難が大きいだろう。
野党が分裂の困難を抱え自民党が大勝しやすい理由は、小選挙区比例代表並立制という選挙制度の効果だけではない。地方の政治制度が、都市部でのみ政党間競争を激化させ、農村部で自民党の優位を維持するように作用していることが大きい。自民党に対抗する野党が政党名で選挙を戦えず、それが可能な地域では首長党の参入が脅威になる。
現在の地方議員は当選に必要な得票数が少なく、それゆえに地域の個別的利益を志向しがちだ。個人ではなく、政党を単位として当選のためにより多くの有権者の支持を必要とする制度が求められる。政党が首長とは異なる地方の集合的利益を掲げ、それを軸に政党の名前で選挙を戦えれば、政党の支持基盤の安定に資するだけでなく、地方政治の活性化をもたらすだろう・・・

砂原庸介教授、大佛次郎賞受賞

2017年12月18日   岡本全勝

砂原庸介・神戸大学教授が、第17回大佛(おさらぎ)次郎論壇賞、を受賞されました。『分裂と統合の日本政治――統治機構改革と政党システムの変容』(千倉書房)です。
・・・二大政党制を目指した政治改革が行われたはずなのに、なぜ実現しないのか。本書はその原因を「地方」の政治ログイン前の続きや選挙のありようの中に探り、今の制度の中には有力な野党が育ちにくい構造があることを示した。与野党が公平に競争できる政治を目指し、改善の提言も行っている・・・
続きは、12月18日の朝日新聞をお読みください。

「説明責任」の濫用と誤用

2017年11月24日   岡本全勝

11月18日の朝日新聞オピニオン欄、豊永郁子・早稲田大学教授の「野党・メディアの追及 「説明責任」劇場に陥るな」が、勉強になります。

・・・元の言葉は英語のアカウンタビリティーだ。手前味噌だが、政治の世界の語彙としてのこの語を初めて日本語にしたのは私だったと思う。25年前、最初に書いた論文でのことだ。訳語がなくて困った私は(辛うじて見つけた訳は「会計責任」だった)「答責性」という語を作ったログイン前の続き。このとき敢えて避けたのが「説明責任」という訳だ。単に説明する責任ととられる恐れがあるからだ・・・
(アカウンタビリティーは、サッチャー政権の行政改革・地方自治体改革のキーワードだった)・・・それは個人や組織が与えられた職務をきちんと履行していることを、上位者の求めに応じていつでも説明できる状態にあることを意味する。上位者は個人や組織を評価し、制裁や報賞を与える存在なので、この状態には緊張感が伴う。サッチャー政権は、経営や会計学で用いられていたこの概念を行政組織に適用した。そしてアカウンタビリティーを実現するため、行政組織の各単位の職務を確定し、職務の履行ぶりが数字で示されるシステムの構築を図った・・・

・・・さて、気になるのは、そうした「説明責任」が決まり文句になることで、何か問題が起こった際には、責任者に「説明責任」を問い、あるいは責任者が「説明責任」を果たせば事が済む、とする風潮が生じていることだ。
政界で言えば、典型的には、双方「説明責任」の錦の御旗を掲げ、野党とメディアは執拗に政府に説明を求め、政府、とりわけ首相は喜々として説明する、お決まりの「説明責任」劇場が展開する。悪いことに、ここでは、一方の野党とメディアは「説明責任を果たせ」とボールを政府に投げることで、客観的な事実認定を自ら行うことを避けているように見え、他方の政府は「説明責任を果たす」と言っては、一方的な言い分を述べ立て、自己宣伝の機会を増やしているだけに見える。議論の焦点も、誰かの説明責任が果たされているかどうかに、いつの間にかすりかわっている。
政治家とメディアは「説明責任」を問う手法をしばし禁じ手とし、自ら客観的に事実を認定し、示してはどうか。そしてそうした事実について、何が国民にとって問題かを説明してほしい・・・

マスコミにも野党にも、耳の痛い話です。ぜひ全文をお読みください。

日本政治、改革の時代の終わり?

2017年11月5日   岡本全勝

11月1日の朝日新聞オピニオン欄「平成の政治とは」、佐藤俊樹先生の発言から。

・・・平成は、グローバル化という潮流のなかで日本の「総中流社会」が崩壊し、格差が広がっていった時代です。その変化に対応しながら、より公平な社会をつくっていく。それがつねに政治の焦点になってきました。
小泉政権の郵政改革、マニフェスト選挙で政権交代を実現した民主党……。平成の政治の基本潮流は「改革路線」でした。保守・革新の枠を超えて、政党の崩壊や分裂を繰り返しながら、改革の旗印が消えることはありませんでした。ところが、今回の衆院選ではその旗手に名乗りをあげた希望と維新が票を伸ばせなかった。「改革の時代」の終わりではないでしょうか・・・

・・・背景にあるのは有権者の改革疲れだと思います。平成の初頭、日本は米国を脅かす経済大国でしたが、GDPは伸び悩み、今では中国に抜かれました。苦しい改革を重ねてきたのに、人々の暮らし向きはさほど変わっていません。
現在の日本経済は世界経済の動向に大きく左右されます。政府が打ち出す政策の効果はもともと限られている。さらに、以前は低成長や少子高齢化は日本特有の課題だとされていましたが、最近は多くの国で同じ状態になりつつある。横並び意識が強い日本人には危機感を感じにくい状況です。
安倍政権の安定ぶりにはそんな巡り合わせもあったように思います。「改革」の旗印がまだ説得力を持ちつつも、次第に政治への期待が低下していった・・・

いつもながら、鋭い指摘です。毎日の出来事を追いかけているだけでは、見えてこない視点です。
私もこの説には同意しますが、少し違う見方もしています。
一つには、改革という言葉がインフレ状態になり、あまりにも安易に=中身を伴わずに使われています。それに、国民が気がついているのです。××革命という言葉も、同様です。
二つ目には、改革によってどのような成果が出ているかを、政府も識者も十分に説明していないことです。国民には、改革でどのようなよいことが実現したかが、いまいち分かりません。改革は常に未来形であって、過去形では認識されていないのです。これも、政治家に幾分かの責任があります。未来に向かって「改革」を訴えますが、その結果について語りません。
三つ目に、このことにも関連しますが、改革さらに革命には痛みを伴います。既得権益、既存勢力を削減するのですから。しかし、痛みについては、多くが語られません。「敵」を明確にしてそれと闘うなら、それだけの覚悟が必要であり、「血」も流れます。かつては、国鉄と労働組合、郵政と郵政族、官僚などが「敵」とされました。