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連載「公共を創る」第227回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第227回「政府の役割の再定義ー官僚の意見を聞かない「政治主導」」が、発行されました。

政治家と官僚との意思疎通の重要性を議論しています。ところが、首相官邸と各省との間で十分な打ち合わせがなされない場合や、信頼関係ができていない場合があるのです。
前回、安倍晋三首相の回顧録から、「安倍政権を倒そうとした財務省との暗闘」の記述を紹介しました。財務省が安倍首相を「引きずり下ろそうと画策した」というのです。この記述は、首相本人が語っておられる回顧録です。見出しに部下組織との「暗闘」と書かれるのは、穏やかではありません。

菅官房長官・首相は、本人が自ら、総務相時代に、総務省幹部の反対を振り切って、意に沿わない課長を更迭したと書いておられます。また、財務省主計局長の説明に対し、資料を投げつけ、怒鳴ったとも報道されています。
「役人として面従腹背が必要」と発言した、元文部科学事務次官もいました。「忖度」という言葉も、流行しました。

「面従腹背」にしろ「忖度」にしろ、かつては役所では聞かなかった言葉です。そのような言葉が必要な状況になったとすると、大きな問題があるように思えます。そのような状況では、当時の多くの官僚たちは、力を十分に発揮することはできなかったと思われます。
このような事態が生じたのは、官僚主導から政治主導へ転換しようとする意識が、過度に働いたことによるとも考えられます。「政治主導とは官僚主導の否定である」と意識されたのです。そして、官僚の意見を聞かないこと、官僚の意見に反対することが、「政治主導」と思われたのかもしれません。

連載「公共を創る」第226回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第226回「政府の役割の再定義ー政治家と官僚の関係」が、発行されました。
第199回から、政治主導がうまくいっていないことを分析しています。その1は「政治家と官僚の役割分担がうまくいっていないこと」(第204~207回)、その2は「政治家が政治主導を使い切れていないこと」(第207回~前号)です。今回からその3として、「政治家と官僚の関係」がうまくいっているのかどうか、どうすればいいのかを考えてみます。目次も新しくしました。「目次9

ことさらに「政治家と官僚の関係」を取り上げるのは、二つの問題を見聞してきたからです。
一つは、大臣が官僚を使う際に、意思疎通がうまくできていないような例があることです。その結果、仕事が進まない、お互いに心理的負担が生じるといったことにつながっています。このような事象は、かつてもありました。
もう一つは、近年の気になる問題です。政治主導を目指した内閣において、特に官僚との関係に問題が生じたように見えることです。官僚を排除した民主党政権(2009~2012年)と、官邸主導を強力に進めた第2次安倍晋三政権以降(2012年~)での事案です。

会社にしろ役所にしろ、組織としての成果を挙げることと、社員と職員が気持ちよく働いて成果を出すことが重要です。このためには、上司と部下が十分な意思疎通をすることが必要であり、各幹部は常にそれを考えているはずです。ところが、国家を動かすために組織の力を最も振るわなければならないはずの内閣や各省において、それがうまくいっていないことがあるのです。首相や閣僚は選挙で選ばれた職業政治家です。試験を受けて採用され経験を積んできた職業公務員である官僚とは、違った経歴を持ちます。それが故に、二者の関係を良好に保つには、努力が必要なのです。

私は、「明るい公務員講座 管理職のオキテ」を出版し、部下を使って良い成果を出すコツを公開しました残念ながら、それに反したことがこういった組織でも行われてしまっているのではないかと心配です。
うまくいっていない事例として、民主党政権での官僚排除、現場を混乱させる首相指示、安倍首相の官僚不信などの実例を挙げました。

コメントライナー寄稿第23回

時事通信社「コメントライナー」への寄稿、第23回「日本の政治はなぜつまらないのか」が6月19日に配信され、24日にはiJAMPにも転載されました。

毎日、報道機関が政治情勢を伝えます。でも、内容は面白くないと思いませんか。政治家や報道機関は熱意を持って語りますが、多くの国民は関心を持たずにやり過ごしているようです。はっきり言って、日本の政治と政治報道はつまらないのです。

政治とは、意見の異なる人たちが対決と協議をして、結論を導く過程です。ところが日本では、自民党と官僚が「密室」で政策を決めてしまい、その過程が国民に見えません。国会では、質問は事前に通告され、官僚が用意した資料をもとに閣僚は回答します。しばしば「激しい論戦が…」と報じられますが、ほとんどの場合、結果は見えています。
民主主義は、国民という観客の興味を引きつけ支持を得ることが必要で、そのためには演技も必要になります。ところが、そのような場面が少ないのです。

政治家が、夢のような演説や公約をすることもありますが、たいてい実現手法も財源も示されず、願望の総花的な一覧表に近いものです。国民は、その非現実性を見抜いています。「改革」を主張しても、具体的に何を切り落とすのかを示しません。しかし、痛みのない改革はあり得ません。国民は訊きたいのです。「どこを切るのですか」「減税の財源はどこにあるのですか」「赤字国債で将来の国民にツケを回すのですか」と。報道機関も、質問してください。

連載「公共を創る」目次9

目次8」から続く。「目次1」「目次2」「目次3「目次4」目次5」「目次6」「目次7」「全体の構成」「執筆の趣旨」『地方行政』「日誌のページへ

6月26日 226政府の役割の再定義ー政治家と官僚の関係
7月3日 227政府の役割の再定義ー官僚の意見を聞かない「政治主導」
7月10日 228政府の役割の再定義ー異論に耳を傾けることの大切さ
7月17日 229政府の役割の再定義ー英・独に学ぶ官僚の中立性確保
8月7日 230政府の役割の再定義ー
8月21日 231政府の役割の再定義ー
8月28日 232政府の役割の再定義ー

連載「公共を創る」第225回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第225回「政府の役割の再定義ー政治家に求められる能力」が、発行されました。政治家による政策議論について、国会が本来期待される機能を果たしていないことを指摘しています。

社会では、絶えず問題が生まれます。それを、「誰がどのように、そしてどの方向に解決するか」。家族と親族、企業、地域社会、中間団体、宗教、慈善活動やNPO、そして地方議会、国会、行政、司法のうち、誰がまずは責任を引き受け、誰と誰が発言し行動するのか。誰も引き受けない場合、あるいは意見の対立が解消しない場合は、最終的に誰が解決するのか。国によって、解決する主体、あるいは解決することを期待される主体が異なり、またそれら主体の力関係が違います。
同じ近代民主主義国、資本主義自由経済国家であっても、英国、フランス、ドイツ、米国、そして日本は、よってきた歴史と社会が異なり、「国のかたち」が違います。これを考えるのに役立つ書物が、近藤和彦著「イギリス史10講」(2013年、岩波新書)です。英国では、議会が解決の場であるだけでなく、主体になるようです。この本については、このホームページで、たくさんの論点に分けて紹介しました。「覇権国家イギリスを作った仕組み」~「覇権国家イギリスを作った仕組み、9」。番外も「覇権国家イギリスを作った仕組み、12

日本の国会においては、異なる意見や利害を議論して調整することが少ないと指摘しました。では、どこで調整しているのでしょうか。実態として、日本では、内閣、その中でも各省の官僚機構が解決主体として働くものと期待されているようです。
官僚に求められる能力と現実の問題について述べたので、政治家に求められる資質についても書いておきました。

これで、「政治の役割」のうち、「政治主導の在り方」を終えて、次回からは「政治家と官僚の関係」に入ります。