カテゴリーアーカイブ:社会と政治

土地の管理、国家と私人の権利義務のあいまいさ

2021年4月27日   岡本全勝

4月21日の日経新聞オピニオン欄、斉藤徹弥・論説委員の「「土地は公共財」原点に戻れ 国家が担う所有不明の対処」が、参考になります。所有者不明の土地が増えていることに対処する法案についてです。

・・・所有者不明の土地は海外ではあまりみられない日本特有の問題で、その根底には日本の土地制度に起因する土地の細分化と所有権の分散化がある――。3月の衆院法務委員会では、司法書士総合研究所の石田光広・主任研究員がこんな問題提起をした。
日本は小規模な土地を多くの人が所有しているという特徴がある。明治の地租改正で1筆の土地に所有者は1人の一地一主とした。当時の総筆数はおおむね1億筆だ。
その後、経済成長と人口増で土地の資産価値が高まり、相続税対策も重なって土地の分割や共有が進んだ。日本の土地は今、2億筆を超える。国土が本州ほどの英国は1500万筆、日本とほぼ同じドイツが6000万筆、1・5倍のフランスは1億筆とされ、日本の土地は細分化が著しい。

石田氏によると、日本のように土地の分割や所有権の共有が簡単にできる国は少ない。世界では土地の分割は景観や農地の保全を妨げ、土地の価値を変えてしまうとして許可制が主流だ。同様の理由で安易な所有権の共有も制限する国が多い。
ドイツでは自治体が域内の土地利用を都市計画で厳しく規制している。緩い規制で開発を広げて空き家を生み、コンパクト化もままならない日本の自治体とは対照的だ。都市国家だった歴史的経緯もあるが、底流には「土地は公共財」という公地思想がある・・・

・・・その理由を慶応大学の松尾弘教授は「国家としての土地管理が行われてこなかったことが最大の原因だろう。土地に対して国家がもつ権限・責務と私人がもつ権利・義務の関係は曖昧だ」と東京財団政策研究所の論考で指摘する。
人口減少時代に引き取り手のない土地は公的に管理するのが妥当だ。欧州の例をみても公共財としての土地に責任を持つべきは自治体だろう。知恵を絞り土地の価値を高めて税収増を探るのは自治体の本来業務と言ってよい・・・

戦後民主主義の罪、2」で、私権の制限が進まないことを述べました。

変えなければ変わらない

2021年4月5日   岡本全勝

「東日本大震災は日本を変えたか」という問いがあります。私は、拙著「復興が日本を変える」(2016年)の「はじめに」で、次のように述べました。
・・・「東日本大震災が大きな被害をもたらしたのに、日本社会は変わっていない」という人もいます。しかし、私は、この言い方について、次の2つの面から疑問があります。
まず、大災害が起きたら、社会は変わるものでしょうか。確かに、大震災は日本社会に大きな衝撃を与えました。大津波はたくさんの街並みを飲み込み、多くの人命を奪いました。原子力発電所の事故は、原発の安全神話を吹き飛ばすとともに、科学技術への信頼も揺るがしました。自然の脅威や科学技術への信頼について、国民の意識を変えたことは、間違いありません。しかし、社会に大きな衝撃を与え、国民の意識を変えたとしても、それだけでは社会は変わりません。無常観や不信感が広がるだけです。その衝撃をきっかけに、国民が行動を起こし仕組みを変えなければ、日本社会は変わりません。
第2次世界大戦の敗戦は、日本社会を大きく変えました。それは、戦後改革が行われ、民主化や自由化が進んだからです。阪神・淡路大震災で、ボランティア活動が社会に認識されました。それは、多くの若者が支援活動に駆けつけたからです。社会が変わるには、私たち日本人が変えようとしなければならないのです。
次に、東日本大震災によって、日本社会は実際に変わったのかどうか。私は、日本社会は変わったし、変わりつつあると考えています。その中で、私たちには今、何をどのように変えようとしているのかが、問われているのです。「大災害が起きたら社会は変わる」というだけでは、何がどう変わるかがわかりません・・・

3月27日の読売新聞夕刊「東日本大震災10年 変わらぬ日本 考える人作り」では次のように書かれています。
・・・東日本大震災から10年を機に、多くの報道があふれた。批評家の東浩紀さんに、この10年の日本を振り返り、課題を挙げてもらった。
「震災で日本は変わるのかなと思っていた。脱原発社会やライフスタイルの変化などが盛んに吹聴され、デモも行われるようになった。だが、ほとんど何の結果も出せず、社会は何も変わらなかった」・・・

3月29日の朝日新聞社説「若者の力と社会課題 大震災後の潮流を育みたい」は、次のように述べています。
・・・その東日本大震災は、もう一つ、いまに連なる変化が顕著になった節目でもある。日々の生活で抱える様々な問題は、災害など非常時に深刻さを増す。課題に直面する人たちへの支援を行政任せにせず、自らかかわりたい。そんな思いを持ち、実際に動く人が目立ち始めた。
特に注目されるのが、若い世代の意識と行動だ・・・

アトキンソンさん。日本人の検証なしでの思いこみ

2021年3月1日   岡本全勝

2月23日の朝日新聞スポーツ欄、デービッド・アトキンソン氏「世界一寛容な日本、願望に近い」から。

・・・日本人は思い込みや俗説が多い。専門家に確認しない、検証しない。厳しく言えば、プロ意識が低い面があることは共通しています。それは寛容の一環かも知れませんが。
例えば、東京五輪が日本経済の起爆剤になるというのも、俗説。エビを食べて長寿にあやかるのと同じ。数週間のイベントがGDP550兆円の日本経済に大きな影響を与えるはずがありません。
五輪で観光客が増えるというのも、何の根拠もない思い込み。インバウンドが増えたのは5年前からですが、リオデジャネイロで五輪があるからと、開催の5年前にブラジルに行った日本人が多くなった事実はないです。自分たちがやらないのに、なぜ外国人がやると思うのか。
過去の大会では、その年には海外からの需要が増えるが、ほとんどがマスコミ関係。翌年はよくない。2012年に開催したロンドンだけ増えましたが、これは五輪に合わせて観光対策をしたから。五輪だけの影響ではありません。

日本の決定的な問題は、クリティカルシンキング(批判的思考法)が十分にできていないこと。これは、仮説を立てて、ロジックを分解し、データで検証し、結論を導き出すもの。
大学の問題が大きい。クリティカルシンキングができるようになるのは大学生の年齢。人間というものは勝手な思い込みをする生き物なので、それをなくすため大学教育が発達した。
大学の4年間、先生とのやりとりで、思い込みで発言したら、根拠はなんですか? 評価に客観性はありますか?と聞いて答えさせる。日本の大学はそれが十分できていない。
だから日本は事後対応しかできず、いつも後手に回る。事前に仮説をたてて議論しても、受け入れられないのです。予想はできるのに、何も手を打たない。
重ねていいますが、東京五輪はやっても、やらなくても、日本経済には中長期的にはさしたる影響はありません・・・

国民に負担を強いる、差をつける

2021年2月16日   岡本全勝

治療の選別」の続きであり、「世論調査項目、賛成ですか反対ですか」「憲法を改正できない国、その2」の続きにもなります。
国民に負担を強いることを考えてみます。それを喜ぶ人は少なく、どのように合意を取り付けるかが、政治の仕事になります。
それは、増税や公的保険料の値上げといった金銭負担だけではありません。外出禁止、行動制限、営業自粛など、国民の行動を制約する場合もあります。
負担そのものが反対されるだけでなく、誰にどのように負担を分配するかが議論になります。「公平」は一律に決まりません。利益を配る際にも、国民の反発を引き起こすことがあります。困っている家庭に30万円配るか、全員に10万円配るかは、これに当たります。

困っている人を助ける、それが金銭給付の趣旨でしょう。そして原資が限られているなら(通常はそうです)、なるべく効果があるように絞り込むべきでしょう。特定定額給付金の決定過程は、この問題を考えさせます。当初、収入が減った家庭を対象に30万円を給付する案でしたが、最終的には全世帯に10万円を配ることになりました。高額所得者をも、対象としたのです。

戦後日本が達成した「平等」は、他方で「国民に差をつけることができない」ことをも招いたようです。欧米をお手本に努力した時代は、国民もその憧れに向かって頑張り、また辛抱しました。経済成長期は、その果実を分配することですみました。しかし、成長が止まったとき、高齢化で負担が増える時代には、政治の役割は利益の分配から負担の分配に変わりました。そこに、政治の力量が問われます。

役所で行われる「改革」(組織人員の削減)の際の手法に、一律削減があります。予算要求の際の一律シーリング(予算要求額の上限、例えば前年比5%減とか)もそうです。「みんな一緒です」は受け入れられやすく、しかし説明、説得、判断を放棄した手法です。
その中でも官僚が編み出した「差をつける手法」が、一律削減を大きめに行い、生まれた「財源」を新しい政策や組織に回すことです。

コロナ禍での五輪開催判断、立ち止まって考える

2021年1月3日   岡本全勝

12月26日の日経新聞、安田秀一さんの「五輪開催、公に議論を メリット・デメリット冷静に判断」から。

・・・将来、2020年は世界の大きなターニングポイントだった、ということになるでしょう。資本主義経済の発展で「生き急いでいる人類」が、ウイルスの猛威によって一息つくことを強いられました。それが大きな価値観の変化を生むからです。
パンデミック前の世界は、理性的な声が届かない、熱病に浮かされたように「突き進む」雰囲気が、さまざまな局面で広がっていました。
長く続くステイホーム。いくらお金を持っていても使い道がなければ、意味はありません。家族と過ごす日常では、見栄も虚栄もなく、人間としての本質的な関わりが求められます。人々が「日常の最適化」に向け、いったん歩みを止め、じっくり考え直すことができます。地球上の全ての人々が同じタイミングで同じような事態に陥っているわけですから、その影響力が小さいはずがありません・・・

・・・東京五輪についても本質は同じだと思っています。このコラムでは、五輪のために国立競技場など巨大施設が、後利用を考えずに建設されることの問題を指摘してきました。一部で合理的な反対意見があったとしても、まるで止まらなかった。「五輪は必ず大きな恩恵をもたらしてくれる」という幻想は個々の欲望をあおり、そんな熱病的な力学が、政治はもちろん、建設業界、観光や飲食、宿泊業、われわれスポーツ業界にも同じように作用していました・・・
・・・開催するのか中止にするのか。開催するなら、どんなやり方が最適なのか。そもそもなぜ五輪を開催するのか。冷静に議論すべきタイミングが、本来なら今のはずです。
僕は五輪を中止にすべきだ、と言いたいのではありません。開催でも中止でも、どちらにもメリット、デメリットがあるはずです。それぞれをしかるべき機関をつくって公に議論すべきだということです。本来は主権者である我々国民が判断すべきなのに、具体的な情報が少なすぎます。
報道で知る限り、政府や大会組織委員会が立ち止まって考えている様子はなく、開催に向けて前のめりに突き進んでいます。時期が近づけば、潜在している問題が大きく顕在化していくのは火を見るより明らかです・・・

・・・本気で開催を目指すのであれば、こうした課題を網羅的にテーブルに載せ、当事者同士、世界各国と日本の地域が具体的に一つ一つ丁寧に解決していかねば、開催しても大きな禍根を残してしまうでしょう。
コロナは天災ですが、誰かの決断で事態の悪化を招くのであれば、間違いなく人災となって「唯一の当事者である日本」はその責任を問われます。だから五輪を開催するメリットとデメリット、それを広く議論して、みんなで正しい決断をする必要があるのです・・・

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