カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

裏口からの外国人受け入れ

東京大学出版会の広報誌「UP」8月号に、宮島喬先生の「日本はどんな外国人労働者受入れ国になったか 改正入管法から三〇年」が載っていました。

日本は、移民政策は採らない=外国人労働者の受け入れは制限するとしています。しかし実態は、外国人労働者を受け入れる政策をとっているというのが、この論考の趣旨です。人口減少と高学歴化で、産業界から労働力不足を訴える声が高まり、さまざまな制度改正をして受け入れてきたのです。その際に、高技能や専門能力のある外国人だけに制限するといいながら、抜け道があったのです。

1989年の入管法改正では、単純労働者は受け入れないこと(受け入れはごく一部の職種)が維持されつつ、「定住者」という在留資格を新設し、日系三世に充てられました。その後2年足らずで、日系ブラジル人とペルー人の来日・滞在者数は、15万人も増えました。「マジックか、二重基準なのか」と、先生は書いておられます。
しかし、日本語教育や職業研修は行わなかったので、彼らは派遣業者に頼って来日し、非正規の雇用に就き、労働者の基本的権利がなくとも甘んじて働いた(働かされた)のです。留学生のアルバイトや技能実習生も、同様に抜け道として機能しました。

労働者の送り出し国との間に二国間協定を締結するかしないかも、取り上げられています。日本は、労働者の受け入れを表明していないので、二国間協定を結ぶことはありません。しかし、二国間協定では、労働者の受け入れ条件(待遇などの労働条件、労災・雇用保険の適用、住宅、医療、年金などの内国人労働者との平等扱い)を定め、雇用契約に盛り込み、労働者の権利を守るのです。
建前を守りつつ、実態では漸進的に変えていく。これは、しばしば行われる手法です。これが、軋轢を少なくし、そして実を取ることに有効な場合があります。しかし、このような裏口入学(先生はサイドドアと言っておられます)は、副作用を伴うことがあります。
外国人労働者受け入れでは、この労働者の権利を守らないというとんでもない行為が行われています。非正規、低賃金、保障のない雇用が行われているのです。これでは、国際社会から批判を受けるでしょう。
詳しくは原文をお読み下さい。
10月20日の日経新聞経済教室、斉藤善久神戸大学准教授「生活者としての環境整備を 外国人労働者政策の課題」も、この問題を取り上げていました。

国民の期待値の低下

安倍内閣の成長戦略評価」の続きです。

・・・それでも、多くの人がこの時代を「評価する」としているのは、長年にわたり一国のリーダーとして重責を担った首相が病で退任することへの同情があったのかもしれない。しかし、より本質的な理由は、バブル崩壊以来30年、数々の国難を経て、「日本人の経済・社会に対する期待値が下がってしまった」ということなのではないだろうか。
実際、賃金は上がらないと思っている若い人は多い。人口は減るし、日本はジリ貧だという感覚は、今や広く蔓延しているようだ。

こうした中で求められるのは、長期的な観点に立った経済政策である。コロナ対策も例外ではない。足元の対策だけでなく、長期を視野に入れねばならない。アベノミクスも、もともとは第3の矢「成長戦略」が本命だったはずなのに、矢は的に届かなかった。
規制改革がいかに社会を変えるかは、「ビザ要件の緩和」などにより外国人観光客が激増したことを見れば明らかだ。「働き方改革」「女性活躍」の旗もあるべき方向を示したが、残念ながら道半ばである・・・

前回引用した「成長戦略評価」は政府の業績評価であり、今回引用した「国民の期待値の低下」は国民の側の問題です。それぞれ大きな問題ですが、政府の業績は、担当者たちを代えれば改善できます。他方で、国民の意識の問題は、そう簡単に変えることができません。より困難な問題なのです。
私の連載「公共を創る」では、政府や行政の問題を議論する際に、このような国民の意識や社会の仕組みの側の変化と問題を取り上げています。

IT企業による全体主義

9月2日の朝日新聞、マルクス・ガブリエル、ドイツボン大学教授の「たな全体主義 精神のワクチンを」から。

・・・いま私たちは、新たな全体主義の危機のただ中にいる。この全体主義は独裁国家による専制ではなく、グーグルやツイッターなどに代表される巨大なテクノロジー企業による支配だ。国家すら翻弄されるデジタル権威主義体制と言えるだろう・・・

・・・私たちは最近まで、とんでもない間違いを信じていたことが明白になったと思います。具体的にいえば、テクノロジーの進歩そのものによって、世界がより良い場所に変わったり、私たちの社会が解放されたりしていく、といった考え方です。
むしろ技術の発展が私たちにもたらしているのは、『新しい全体主義』とでも呼べる状況です。デジタル権威主義体制と言ってもよいでしょう。ただし国家が全体主義的になったという話ではありません・・・

・・・私は全体主義の特徴の一つを、公的な領域と私的な領域の区別の喪失として考えています。20世紀の歴史を振り返れば、日本の過去もそうでしたが、全体主義化すると、国家が私的領域を破壊していった。私的領域とは、より分かりやすく言えば『個人の内心』ですね。国家は監視を通じてそれを探り、統制しようとしました。一方、現代は違います。監視・統制の主体は政府ではなく、グーグルやツイッターなどに代表されるテクノロジー企業です。
私たちはいま、SNSなどで私的な情報を自らオンラインに載せ、テクノロジー企業がその情報に基づいて支配を進めています。しかも自発的に私たちは情報を提供しています。一方、国家はこうした企業に対して規制をしようとしても手をこまねいている。言い換えれば、テクノロジーの発展が、道徳的進歩と切り離されてしまったままなのです。
民主的にも正統化(legitimate)されていない一部のテクノロジー企業が、社会・経済の大部分を左右する。しかも市民自らが自発的に従うことに慣れてしまっている。私がいう『全体主義』はこうした状況です・・・

少子化対策 失われた30年

8月16日の日経新聞風見鶏、山内菜穂子・政治部次長の「少子化対策 失われた30年」から。
・・・少子化が止まらない。1人の女性が一生に生む子どもの平均数を示す2019年の合計特殊出生率は1.36と4年連続で低下、12年ぶりの低水準となった。出生数は予想より早く90万人を割り込み「86万ショック」という言葉もうまれた・・・

・・・日本の少子化対策の起点は30年前に遡る。1990年、前年の出生率が調査開始以来最低となる「1.57ショック」が起きた。その後、バブル経済が崩壊。政府は経済や高齢化問題に注力し、大胆な少子化対策を出せないまま時間が過ぎた。
「この30年は一体、何だったのか」。自民党が6月に設置した少子化問題のプロジェクトチームで厳しい意見が相次いだ・・・

・・・孤独な子育て、子育てと仕事の両立の難しさ、不安定な雇用―。コロナ禍で露呈した不安は、政府のこれまでの少子化対策の根本的な弱点と重なる。
少子化は、政治が子育て世代やこれから家族をつくる若い世代の不安を解消できなかった結果でもある。危機に左右されることなく、失われた30年を見つめ直す作業こそが「86万ショック」からの第一歩となる・・・

政治発言をしてはいけないのか

7月22日の日経新聞夕刊グローバルウオッチは「有名人、政治発言はタブー?」でした。
・・・「もう我慢の限界だ。『黙ってろ』なんて言わせない」。ネットフリックスで配信されているドキュメンタリー「ミス・アメリカーナ」で米人気歌手のテイラー・スウィフトさんが怒りをあらわにしながら語る。2年前の2018年、米中間選挙で民主党への支持を公表する前に、共和党候補者に批判的な心情を明かした場面だった。
スウィフトさんはそれまで政治的な発言をしてこなかった。過去を振り返って、「私には恋愛の歌しか求められていないと思っていた」と笑う。政治的な発言を避けてきたのには理由がある。イラク戦争直前の03年、当時のブッシュ大統領を批判した女性カントリー音楽グループのディクシー・チックスは「反アメリカ」や「裏切り者」と激しく非難された。スウィフトさんはデビュー当時、音楽レーベルや出版社から「ディクシー・チックスを反面教師にしろ」と指導されたと明かす・・・

・・・日本でも有名人の政治的発言が注目される出来事があった。検察官の定年を延長する検察庁法改正案が国会に提出されると、法案への反対意見がSNS(交流サイト)上で多数あがった。歌手や俳優など有名人が「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを付けてSNSに反対意見を投稿した。スウィフトさんが政治的発言をした時のように、有名人の投稿には賛成と批判の両方の声が寄せられた。
中でも人気歌手きゃりーぱみゅぱみゅさんの同法案を批判する投稿には賛同の意見があった一方で、批判の投稿も相次いだ。その中には、「政治的発言をすべきではない」といった、発言そのものを否定するものが多かった。きゃりーさんは結果的に投稿を削除するに至り「今後は発言に責任感を持って投稿していきます。失礼致しました」と釈明した・・・

・・・政治的発言をすること自体にバッシングがあったのはなぜか。メディア論が専門の成蹊大学教授の伊藤昌亮氏は「政治はプロフェッショナルが担うものだという考えが日本では強い」と語る。「複雑な政治の世界の外側にいると見なされている有名人は、参入資格がないとみられている」と指摘する。
社会運動論が専門の立命館大学の富永京子准教授は「日本では社会運動が社会を変えるという感覚がそもそも薄い」と話す。日本を含めた7カ国の満13~29歳の若者を対象とした意識調査によれば、「私の参加により社会現象が少し変えられるかもしれない」に「そう思う」と「どちらかと言えばそう思う」と回答した割合は日本は30.2%にとどまった。米国は52.9%と最も高く、隣国の韓国も39.2%と日本より高かった。

そのうえで富永氏は「日本人は『自分の行動によって政治が変わる』といった感覚が薄い」と指摘し、有名人のSNS上での政治的発言に対しても否定的なのではないかと分析する。
米国でも日本でも有名人が政治的立場を表明することはあり、意見を異にする人から批判が出る。ただ「米国では『そもそも政治的発言をするな』といった批判は少ない」と米国政治に詳しい東洋大学教授の横江公美氏は語る。政治的発言をすることは有名人にとっていわば社会的責務だと指摘し、「米国は二大政党制が根付いており、政権交代が機能している。政治的立場の表明によって、一方の党の支持者から嫌われるかもしれないが、それで『干される』ことはない」と話す・・・

政治発言に対して、反対派から批判が出ることは普通のことでしょう。また、事実誤認などは正されて当然です。問題は、政治発言をすること自体への批判です。
民主主義とは、意見の異なる人が議論して、一定の結論を得る仕組みです。意見、特に反対意見を表明してはいけないなら、民主主義は機能しません。私は、有名人を含め政治発言を批判する発言は、民主主義の観点から厳しく批判すべきだと考えています。政治家もマスメディアも、もっと取り上げるべきです。
日本社会論として論じるなら、記事でも書かれているように「政治は専門家に任せておけば良い。一般人は投票にだけ行けば良い」という認識が強いのではないでしょうか。
教育現場においても、政治は制度の説明や歴史を教え、現実政治や政治的議論は避けてとおるようです。それでは、民主主義の運用を教えることにはなりません。