カテゴリー別アーカイブ: 歴史

日本の近代産業を率いた人たち

栂井義雄著『日本資本主義の群像 ―人物財界史』 (2021年、ちくま学芸文庫)を読みました。日本の近代産業を率いた人としては、渋沢栄一が有名です。今年のNHK大河ドラマに取り上げられ、本屋にはたくさんの関連書籍が並んでいます。

この本は、渋沢栄一を筆頭に、明治から戦前までの財界人10人を取り上げて、その仕事ぶりを紹介したものです。簡潔にまとめられていて、読みやすいです。冒頭に、財界・経済界がどのようにしてできたのかが解説されていて、勉強になります。
歴史というと、政治家や武士が中心に描かれますが、経済を動かした人たちの役割も重要です。それら以上に、一般の人がどのように暮らしていたか、それがどのように変化したことの方がより重要ですが。こちらの方は、小説やドラマにはしにくいですね。

財界人10人で明治から戦前までの経済を描くのは無理がありますが、大まかな姿や時代の雰囲気が分かります。数字だけでは分からないことです。特に、近代産業が興り、成長する時代です。この人たちが中心になって財閥がつくられ、日本の産業界を引っ張ります。富国強兵・殖産興業を大方針とした政府と軍部の関係も、描かれます。
その後、才能と意欲のある個人が事業を起こす時代から、会社組織になって経営者が育成される時代になります。すると、特色ある個人事業家は少なくなります。

ところで、歴史小説にしろこの本にしろ、多くは成功者の話です。それは面白いのですが、他方で敗者もたくさんいます。それらも書かれていると、時代の動きがより分かり、また勉強になるのですが。それは、難しいですかね。

中東の安定と繁栄

9月18日の読売新聞解説欄、フランスの歴史家ジャンピエール・フィリユさんの「米軍アフガン撤退 「米国の中東」30年で幕」から。詳しくは原文を読んでいただくとして。
・・・米国のバイデン政権は米同時テロ20年を迎え、テロ直後に開戦し、米史上最長の戦争となったアフガニスタン戦争に幕引きをした。米国が20年前に政権から放逐した、イスラム主義勢力タリバンは米軍撤退の混乱のさなか首都カブールを制圧し、政権を奪還した。この 顛末てんまつ の歴史上の意味は何か。フランスの中東史の大家ジャンピエール・フィリユさんに読み解いてもらった・・・

――8月末の米軍のアフガン撤退完了で「米国の中東」は完全に終わった。
「復活はありません」
――米国の残した空白を埋める国はあるのですか。
「米国は圧倒的な大国でした。軍事・経済・金融・科学技術など全てに突出していた。代わり得る国はありません」
「ロシアはシリアのアサド政権の延命に深く関与した。だが真の戦争、つまり『イスラム国』との戦いは米英仏3か国が担った。ロシアは反政府勢力を空爆しただけです。和平を導く意欲はない。シリアは戦争でも平和でもない状況が続いています」
「中国は中東で派手に外交宣伝をしています。対米批判を重ねるばかりで、中東和平の代案を示すことはない。実際は商売最優先です。中国には中東政策がない。展望がない。例えばイスラエルやアラブ首長国連邦で港湾に投資していますが、それで両国が行動を変えることもない」
「世界の大国は中東を足場に立ち現れる。これは私の持論です。つまり中国は世界的大国ではない」
――中東の先行きは。
「第1次大戦後のオスマン帝国の消滅以来、中東は危機の連続です。しかも危機はその都度深刻化している。私の考える根本の原因は、中東の諸政権の『秩序』は民意を反映していない、つまり正当性がないことです。支配層は民衆を飢えさせ、異議を申し立てる民衆を弾圧してきた。アラブ人に限らず、トルコ人もペルシャ人も同様です。民意が尊重されない限り、中東に安定も繁栄も訪れません。暗たんたる思いです」

9.11後の20年

9月7日の日経新聞文化欄「9.11後の20年」トーマス・フリードマン氏の「民族とグローバル、均衡を」から。
・・・東西冷戦の終結を受け、その後の国際秩序を予想する議論が出た。フランシス・フクヤマは自由経済圏が勝利し平和が来る「歴史の終わり」を予言したが、世界から紛争は消えなかった。サミュエル・ハンチントンは異なる文明同士が対立する「文明の衝突」を論じたが、実際にはイスラム教シーア派とスンニ派の対立のように、同じ文明内での衝突が頻発した。
私は「民族としてのアイデンティティー」と「グローバル化」という新旧2つのシステムがからみあい、共存する世界を予想した。トライバル(民族的)な欲求とグローバル秩序が時には綱引きを、時にはレスリングをしつつ均衡を保っていく構図だ。この予想はかなり的を射ていたと思う。
(14年に)ロシアのプーチン大統領はクリミア半島の併合に踏み切ったが、ウクライナの首都キエフには侵攻しなかった。中国は香港で引き締めを強めているが、台湾には侵攻していない。トライバルな欲求をグローバル秩序が抑え込むことに成功したからだ・・・

イギリス産業革命以前の起業家

ジョオン・サースク 著『消費社会の誕生─近世イギリスの新規プロジェクト』(2021年、ちくま学芸文庫)が、勉強になりました。

イギリスの産業の歴史と聞くと、産業革命を思い浮かべます。突然、革命が起きたのか。そうではありません。それ以前に、地方の町や農村に家内制手工業が発展します。亜麻布、靴下、台所用品などなど。政府や知識人たちは、穀物生産が第一、国内消費向けの産業育成より海外貿易重視です、しかし、農地を追われた人、働くところのない人たちが、これらの手工業に従事し、貧民対策としても広がります。副収入を得ることができるのです。
それらの多くは、品質がよくなく、また規格もバラバラです。知識人はそれを嘆きますが、これらの製品は輸出ではなく、国内で消費されます。貧しい人にとっては、立派で高価な品物より、少々粗雑でも安い物が受け入れられます。ここに、生産と消費の好循環が生まれます。16世紀、17世紀の発展です。

庶民の行動(収入を得たいという願望、身の回りのものを買いたいという欲望)が、社会を動かします。そして、一部の人の「新奇な行動」が各地の人たちに広がります。庶民の行動と通念の変化が、社会を変えていきます。

著者は、地方経済史の専門家です。かつての権力を中心とした政治史ではなく、地域社会から歴史を分析します。正確な生産や売買の記録はないのですが、残された記録を元に、議論を組み立てます。面白いです。
1984年に東大出版会から出版されたものが、今回文庫本になりました。このような学術書が簡単に読めるようになるのは、ありがたいですね。

全体主義に回帰する中国

8月19日の朝日新聞オピニオン欄、豊永郁子・早稲田大学教授の「習近平体制の本質 全体主義に回帰する中国」から。

・・・今や独裁の代名詞となった観がある権威主義だが、体制概念としての歴史は浅く、1964年に政治学者のホアン・リンスが提唱したのが始まりである。当時、独裁といえばヒトラーやスターリンの全体主義を意味したが、リンスは戦後も安定的に続くスペインのファシスト政権により穏健なタイプの独裁を見いだし、これを権威主義と名付けた。
権威主義は次の4点で全体主義と異なる。(1)経済的・社会的な多元主義、さらに限定された政治的多元主義が存在する(反対勢力が存在し得る)。(2)体系的で精緻なイデオロギーはないが、ある種の保守的な心理的傾向が支配する。(3)リーダーの権力は、明確に定義はされていないが予測可能な一定の範囲内で行使される。(4)政治的動員は弱く、政治的無関心が広く見られる。
右に照らせば、今日の習氏の体制は権威主義ではあり得ない。批判勢力は一掃され、起業家も文化人も市民団体も統制され、個々の市民も監視や動員を受ける。中国と習氏の偉大さを説くイデオロギーも誕生した。諸々のルールを吹き飛ばして自らの国家主席としての任期制限を撤廃した習氏は絶対的なリーダーに見える。バイデン政権が対峙しているのは「全体主義」中国ではないのか・・・

・・・では習体制は毛体制の再現となるのか。中国はもう共産主義経済ではないのでそれは違う。では何か。国家が掲げるイデオロギーには2種類ある。どの国にも採用可能な普遍的な理念やプログラムを掲げるものと、自国に固有の価値観や理想を掲げるものとだ。共産主義体制は前者を有したが、今日中国を導いているのは後者である。戦前戦中の日本のイデオロギーも後者であり、同盟国のドイツなどその危険性を極め尽くした。このタイプのイデオロギーを有する全体主義国家には特徴的な振る舞い(領土的野心の性質や人権侵害のあり方など)と陥りやすい陥穽(合理性の欠如や他国の反応の読み間違いなど)が存在する。これらについては日本とドイツの前例が多くのことを教えてくれる・・・