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新聞社から毎日情報40%、ネット73% 

3月18日の朝日新聞に「新聞社から毎日情報40%、ネット73% 信用は新聞社最高 協会調査」が載っていました。日本新聞協会が昨年9~10月、15~79歳の1200人を対象に実施した調査結果です。

・・・新聞や新聞社のニュースサイトで情報に「毎日」触れている人は40.3%だったが、ネットは73.4%だった。
メディアの印象・評価については、「情報が正確で信頼性が高い」や「安心できる」「中立・公正である」などで新聞がネットより高かった。一方、ネットは「日常生活に役立つ」「自分の視野を広げてくれる」「親しみやすい」などが新聞より高かった。
ネットで入手するニュースの提供元について、SNSなどでニュースを見聞きする人の45.4%が「必ず確認する」「たまに確認する」と回答。信用が出来るニュースの提供元としては「新聞社」が57.6%と最も高かった・・・

フェイクニュースの海で事実を伝える

3月13日の朝日新聞オピニオン欄、マーク・トンプソンCNNワールドワイドCEOへのインタビュー「ジャーナリズムの未来」から。

メディアの役割が、世界で問われている。かつて英BBC、米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)を率いたマーク・トンプソンさんは今、米CNNの最高経営責任者(CEO)として「変革」を指揮する。存在感を増すSNSと、トランプ政権下で強まるメディアへの圧力――。揺れ動くジャーナリズムの未来とは。

――センセーショナルな内容のフェイクニュースがSNS上で広がりやすい昨今の状況に、対処できると思いますか。
「止めることはできないと思います。フェイクニュースはある種の『うわさ』です。SNSはうわさを作ること、拡散することをより簡単にしました。そうした情報に人々の興味がかき立てられていることも、現実の一部です。大切なのは、メディアとして自らの価値を保ち、ブランドを目立たせ続けることです。そうすれば、フェイクニュースの海に浮かぶ『真実の島』になることができるでしょう」

――昨年の米大統領選の期間中、トランプ氏は「移民はペットを食べる」などの発言で社会の混乱をあおりました。
「私たちの仕事は、それに憤慨することではなく、事実を把握することです。政治家が選挙期間中に大げさな発言をするのは、よくあることです。発言に真実はあるのか。どこから生まれた話なのか。そうした基本的な問いに、答えようとするべきです。(トランプ氏の発言で名指しされた)オハイオ州スプリングフィールドは工場で労働力を必要としていて、移民の受け入れが奨励されていました。そうした背景を知って、きちんと伝えることが重要です」

――トランプ氏は、政権に批判的なメディアにしばしば攻撃的な姿勢をとっています。
「私はこれを、政治家との闘いだとは思っていません。政治家には発言の自由があり、メディアを批判することはよくあります。特に、私たちが伝える内容が気に入らないときはそうでしょう。事実自体が気に入らないから、報道を嫌がるのかもしれません」
「彼らが政治家として行動する一方で、我々の仕事はジャーナリズムです。私たちは政党ではなく、選挙に勝とうとしているわけでもない。『雑音』に惑わされて、事実を報じるという本来の義務を果たすことから遠ざかるべきではありません」

ニュース砂漠がもたらすもの

3月14日の朝日新聞オピニオン欄「ニュース砂漠がもたらすもの」、小川明子・立命館大学教授の発言「民主主義への役割、理解を深めて」から。

―「ニュース砂漠」という言葉をよく聞きます。
「米国で、地域独自の新聞を持たないエリアをそう表現したのが始まりです。情報のデジタル化とネット広告の浸透によって購読者数や広告収入が減少し、世界中でニュース企業の経営難が進んでいます。買収、統合と記者の解雇などにより、地域発のニュースが大きく減少しているのです」
「米国では、ニュース砂漠になった地域で、ローカルな政策について住民が議論する機会が失われ、行政のコスト意識が緩んで財政状況が悪化したり、汚職が増えたりすることが明らかになっています」

―日本の状況をどう見ていますか?
「日本でも、新聞社などの支局閉鎖や記者の削減で各地の取材網が縮小しています。全国紙やブロック紙、県単位の新聞に加え、市町村単位のニュースを伝える地域紙やコミュニティー放送局も力を失い、休刊や閉鎖が続いています」
「民間の広報支援企業が昨年、都道府県と全市区町村にアンケートをしたところ、回答した自治体の約3割に記者クラブがある一方で『5年前と比べて滞在する記者が減った』という回答が4割超に上りました」

―メディアの収入減にどう対処すべきですか。
「海外では、財団の資金援助やクラウドファンディングなどに加え、個人の寄付を募集するメディアもあります。例えば英国のガーディアン紙では、購読料ではなく寄付というかたちで500円程度からの少額の資金提供を募っています」
「これからは、正確な情報を伝えるメディアをサポートし、健全な情報環境を保つためのコストを支払うという意識が大切になってきます。好きなメディアに今後も存続して欲しい、と考える人は日本でも少なくないはずです」
「公的支援をしている国もあります。韓国では、健全なジャーナリズムの振興を目的に政府によって財団が設立され、2020年には約8億円が地域新聞に支払われています」

「たとえ1人でも、自治体や公的団体は『記者がいるから』と緊張感を持つ。誰かが見ているという監視カメラのような存在がいるだけで大きな違いがあります。安定した収入のない点が共通に抱える課題です」

民意、感情と理性2

民意、感情と理性」、山腰修三教授「メディア私評」「民意を捉える 感情か理性か、誰に何をどう語る」の続きです。

・・・新聞購読の習慣は失われ、ニュース離れが進んだ。また、ニュースはオンライン上でどれだけ読まれたかが数値化され、重要だが読まれない記事を伝えるシステムも衰退した。デジタル化とともに、民意を捉える従来の技法が機能不全となったのである。
その結果、「民意を捉える」という点からジャーナリズムは二つの選択肢に直面している。一つは大衆的側面(感情)により一層寄り添う、という道である。人々のネット上の活動を分析するマーケティング技術の発展とともに、人々が「本当に望む情報」を提供することができるようになった。この戦略は人々の感情の活性化によって駆動する今日のSNS環境とも親和的だ。しかしながら、自由民主主義にとって必要不可欠な「伝えるべき情報」を犠牲にすることになる。

もう一つは、市民的側面(理性)に寄り添うという選択肢だ。これは20世紀的なジャーナリズムの規範を維持する上で有効だが、一般の人々の日常感覚に根差した「常識」とジャーナリズムとがますます切り離されるだろう。ジャーナリズムをはじめとするエリート的な専門文化に対する不信感が高まる中で、こうした戦略は分断を深め、自由民主主義の後退を加速させる危険すらある。

現代のジャーナリズムは「誰に何を語るのか」という問題に取り組む必要があることは間違いない。とはいえ、同時にジャーナリスト自身はどのような立場でいかに語るのかという点も問われている点を忘れてはならないだろう・・・

民意、感情と理性

2月14日の朝日新聞オピニオン欄、山腰修三教授の「メディア私評」「民意を捉える 感情か理性か、誰に何をどう語る」から。
「民主主義にとって民意を捉えることが困難な時代」が来たと指摘して、次のように述べておられます。

・・・確かに一般の人々とジャーナリズムとの距離は、ますます広がりつつあるように見える。重要な点は、それが日本特有のものでも、偶発的な問題でもないということだ。民意の流動化それ自体は、ポピュリズムの台頭に見られるように今日の自由民主主義諸国に共通する現象である。そしてその背景にはメディア環境の変容、中間層の衰退、価値観の多様化といった社会の構造的な変化がある。

このように社会の急激な変化の中で民意が流動化する経験は過去にもあった。例えば20世紀前半には都市化、選挙権の拡大、そしてマスメディアの発達といった社会の大規模な変化の中で、民主主義の「危機」をめぐる議論が活性化した。それは民主主義を担う一般の人々は「市民」なのか「大衆」なのか、という問いでもあった。この場合、市民は理性的で自律性があり、対話を通じて政治に参加する存在であり、大衆は感情的で空気に流され、政治的な無関心と熱狂とを揺れ動く同質的な存在とされていた。
当時のジャーナリズムもまた、新聞読者層の急増を受けて「自分たちがニュースを伝える相手は誰なのか」という問題に直面した。ここで人々に「大衆」(感情)と「市民」(理性)という矛盾した二つの顔を同時に見いだす民意の捉え方が徐々に確立されてきた。その結果、大衆向けのビジネスモデルに根差しつつ、市民に向けて語るというジャーナリズムの文化が作られたのである。

今でも新聞の社説は市民としての読者に向けて語られる。その一方で、記事作りでは読者の大衆的な関心を高めるための「分かりやすさ」が求められ、時として感情を喚起するトピックや表現が重視される。そしてこの文化には、ジャーナリスト自身が市民として大衆世論を導くべきだという規範も組み込まれてきた。
この民意の捉え方はある種のフィクション(虚構)によって成り立っている。新聞読者の多くが日常的に社説や専門的な解説記事を熟読し、あらゆる争点について自分なりの考えを持つことは想定しがたい。その一方で人々はジェンダー、年齢、職業、地域、価値観や問題関心などの点において多様であり、決して一枚岩的な大衆ではない。マスメディア時代は新聞を購読する一般的習慣が存在し、新聞向けの広告市場も「おそらく多くの人が読むであろう」という想定で運用されていた。つまり、人々が市民としてニュースに日常的に接触しているという幻想に基づいて大衆向けのビジネスモデルが成り立っていたのである・・・
この項続く。