12月18日の朝日新聞、ポール・クルーグマン氏の「より良い世界に戻る道 恨みの支配は、長続きしない」から。
・・・ニューヨーク・タイムズに私がコラムを書くのは今回で最後となる。最初に執筆したのは2000年1月だった。この25年間で何が変わったかを振り返るのには、今回はちょうどいい機会である。
過去を振り返ってみて考えさせられるのは、米国と西側諸国の人々の多くが当時いかに楽観的であったかということであり、そしてその楽観主義がどれほど怒りや恨みに取って代わられてしまったかということである。私が話しているのは、エリート層に裏切られたと感じている労働者階級のことだけではない。現在の米国で最も怒りを抱き憤慨している人たちの中には、十分に称賛されていないと感じている億万長者たちもいる。
1999年から2000年初めにかけて、多くの米国人がどれほど良い気分でいたかを伝えるのは難しい。世論調査は、国の方向性に対する満足度が、今日の基準では非現実的に見えるほど高いことを示していた。欧州でもうまくいっているように見えた。特に1999年のユーロ導入は、政治と経済のより緊密な統合、欧州合衆国への一歩として広く歓迎された。
もちろん、全てが順調だったわけではない。例えば、クリントン政権時代の米国でも、Qアノンの原形のような陰謀論がすでにかなりあったし、国内テロの事例さえあった。アジアでは金融危機があり、これから起こる事態の前兆ととらえる米国人もいた。私は99年に出版した本で、同じようなことが米国でも起こりうると記した。10年後に改訂版を出版したのは、それが起こったときだった。
それでも、私がニューヨーク・タイムズへの執筆を始めた頃は、人々は将来にかなり明るい見通しを抱いていた。
この楽観主義はなぜ崩れ去ったのか。私の考えでは、エリート層への信頼が崩壊したのだ。物事を動かす人たちが自分で何をしているかをわかっているか、彼らを誠実だとみなしていいのか、その確信を国民はもはや持てなくなっている・・・
・・・最近では、イーロン・マスク氏をはじめとする一部のテック業界の億万長者たちが急激に右傾化したことが話題になっている。このことについては深く考えすぎるべきではないし、特にこれが「政治的正しさ」を訴えるリベラル派のせいだなどと騒ぐべきではない。基本的には、かつて世間から称賛を浴びていた金持ちたちが、世の中の全ての金をもってしても愛を買うことはできないのだと、今になって気づきつつあるという狭量さに帰結する。
では、厳しい状況から抜け出す方法はあるのだろうか。私が信じているのは、恨みによって悪い人が権力の座に就いたとしても、長期的にその座にとどまることはできないということである。国民はある時点で、エリート層を非難する政治家のほとんどが、実はあらゆる意味でエリート層そのものであるのだと気がつき、約束を果たせなかった責任を彼らに問い始めるだろう。国民はその時、権威を盾にした議論をせず、偽りの約束をせず、それでも精いっぱい真実を語ろうとする人々の意見に耳を傾けるようになるのかもしれない。
かつて持っていたような指導者への信頼を、私たちはもう二度と取り戻すことはないかもしれない。権力を持つ人々は一般的に真実を語り、自分が何をしているのかわかっている、という信頼だ。そして、それを取り戻すべきでもない。しかし、この瞬間も台頭しつつあるカキストクラシー、つまり最悪の人々による支配に立ち向かえば、最後にはより良い世界に戻る道が見つかるかもしれない・・・