岡本全勝 のすべての投稿

東京新聞、ドーア教授のコラムに引用されました

21日の東京新聞(中日新聞)「時代を読む」で、ロナルド・ドーア英ロンドン大学政治経済学院名誉客員が、「負け組救済、本格議論を」を書いておられました。その最後のところで、次のように書いておられます。
「・・元自治省役人の岡本全勝氏が、最低賃金制を論じたそのブログにこう書いている。『生活保護を下回る賃金は、憲法違反といえないでしょうか。生活保護費との差を公費で補填すべし、という議論が出てこないのでしょうか。』 まさに出てこないのは不思議だ」。
これは、9月9日に書いた「最低賃金」です。なお、私はその前に、「生活保護が国民としての最低限度の基準とすれば、それを下回る賃金は・・」と書きました。詳しくは、「最低賃金」をお読みください。
ドーア先生は、その著作を通じてしか存じ上げませんが、ありがたいことです。私のHPをご覧になっているとは思えないので、どなたかが先生に吹き込んでくださったのでしょうか。
今朝、何人かの人から、この文章を教えてもらいました。
ある人曰く、「インターナショナルになりましたねえ・・」「また、新聞に出ましたね。大丈夫ですか・・」
「ところで、『元自治省役人』とありますが、退職して評論家になったと思われているのでしょうか」
うーん、現職公務員だと不都合があると、先生は配慮してくださったのかも知れません。

キャリア官僚の責任

22日の読売新聞は、社会保険庁問題を、2ページにわたって特集していました。堀田力さんが、次のように書いておられます。
「・・労働組合の責任が大きいのは当然だが、組合を言い訳に何もできなかったキャリア官僚の責任も重大だ・・」
官僚の一人として、とても残念に思います。私も、組織の不祥事の実態究明・お詫びをしてきました。それとともに、これまで日本社会で信頼を保っていた行政組織・官僚機構が信頼低下していることについて、危機感を持っています。それは、このような不祥事だけでなく、官僚の仕事の成果が社会の期待に応えていないことから、生じています。
日々の業務において失敗を起こさないこと、よりよい結果を出すことは当然です。それ以上に、後輩たちに少しでも良い環境を残したいと思って、仕事をしています。連載「行政構造改革」は、その危機感から執筆しています。

武蔵野の変貌

伊藤滋著「面影の街・追憶の家」に、昭和初期の中野の町の暮らしが、書かれていました。先日古本屋で見つけた本で、定価が書いてないので非売品なのでしょう。その後、出版社ぎょうせいから、「昭和のまちの物語」として発売されているようです。
家の近くなので、興味を持って読みました。そして今日、そこに載っている先生の手書きの地図をたよりに、「探検」に行ってきました。地下鉄丸ノ内線の、新中野駅と中野富士見町駅にかけてです。先生が住まわれたのは、昭和6年から18年までです。田畑が宅地化され、住宅が広がっていったとのことです。
道路はかなりその当時と同じなので、ほぼ位置はわかりました。しかし、ビルやマンションが建って、風景はまったく違っています。70年で、これだけの変化があるのかと、びっくりしました。そのあたりは、銀座や新宿といった盛り場、商業地ではありません。武蔵野の畑と住宅地だったのです。それでも、これだけ変化したのです。これが東京の、そして日本の近代化と繁栄の現れなのですね。杉並区の人口は、大正14年に7万人、昭和5年に13万人、10年には19万人になっています。5年ごとに6万人増えています。昭和40年には54万人で、現在は53万人です。
わがふるさとだと、70年前とそう違わないと思われる風景が広がっています。もちろん、道路は広くなり、学校や役場も立派になってはいますが。町の風景と田舎の風景の違い、エネルギーの違いを感じます。
さて、そこから地下鉄で2駅のところにあるわが家は、新築後2年検査を受けました。このあたりも、70年前とは大きく違っているのでしょうね。これから70年後は、どうなっているのでしょうか。私は、それを見届けることができませんが。

金融危機から10年

20日の朝日新聞変転経済は、「金融危機10年」第1回でした。1か月の間に、三洋証券がコール市場で初のデフォルトを起こし会社更生法申請、北海道拓殖銀行が都銀では初の経営破綻、山一証券が大手では初の自主廃業、そして仙台の徳陽シティ銀行が経営破綻し、全国の多くの銀行で取り付け騒ぎが起きました。心配になった預金者が、ほかの銀行にも預金を下ろしに集まったのです。
取り付け騒ぎを静めるために、政府は、預金と銀行間取引の安全を保証する声明を出しました。その後、金融システムを守るために、巨額の公金が投入されました。破綻した銀行を、一時国有化することをも行われました。今も続いています。
いくつもの課題と教訓が残りました。1990年代初めから、いくつかの銀行が経営危機に陥り、また予備軍もいるといわれ、銀行(金融システム)を守るために公金を投入すべきだという議論はありました。しかし、なかなか実現しませんでした。大議論をして、住専処理のために入れたのが1995年、6850億円でした。最終的には、70兆円を用意しました。もっと早くに大きな額で投入しておれば、被害は少なかったのではないかといわれています。
もっとも、なぜ銀行だけを特別扱いするのか(普通の企業が倒れても公費では救いません)という意見も強く、また銀行の方も「自分のところが危ないと思われる」という意識で最後になるまで自らは救いを求めませんでした。大手銀行や証券会社が倒産し、取り付け騒ぎが起きたからこそ、巨額の公費投入が、国民の理解を得たのです。
また、それまでは破綻させることなく護送船団で守る、どこかの銀行に救済合併させるというのが行政の方針でした。そして、行政当局が、どの程度それら金融機関の経営悪化を把握していたのか、という問題も指摘されています。
バブル崩壊から立ち直りつつあった日本経済に、追い打ちをかけたのが1997年の金融危機でした。護送船団方式という行政のあり方を変え、危機の場合は巨額の公金を投入しなければならないという経験を残しました。その後、破綻した企業を、国策会社(産業再生機構)が再生するという手法も導入しました。大学生にとっては、小学生の時の話で、知らないでしょうね。行政学にとっても、大きな教材です。連載に期待しましょう。

2007.10.20

今日は、4回目の授業。だんだん乗ってきたのですが、来週からは、早慶戦や祝日などで、3週続けて休講です。春学期は連休に、小さな宿題を出しました。今回もいろいろ考えたのですが、やめました。