歴史は書き換えられるもの

2か月ほど前から、歴史学の本を、続けて読みました。まずは、川北稔著『私と西洋史研究ー歴史家の役割』(2010年、創元社)。それに触発されて、福井憲彦著『歴史学入門』(2006年、岩波テキストブック)。そして、E・H・カーの『歴史とは何か』(邦訳1962年、岩波新書)を再読。さらに、谷川稔著『十字架と三色旗ー近代フランスにおける政教分離』(2015年、岩波現代文庫)です。
『私と西洋史研究』は、たまたま本屋で見つけたのですが、川北先生が高校の先輩なので、読んでみようと思ったのです。内容は、玉木俊明・京都産業大学教授が聞き手となって、川北先生の研究生活を回顧した本です。ところが、読んでみると先生の経験談とともに、歴史学の意味と役割がこの半世紀にどう変わってきたかが語られています。私は、歴史学はそんなに変化するものではないと思っていたので、先生の記述に眼を開かされました。
・・・私の親友で都出比呂志君という考古学者がいます。阪大で私をずっとサポートしてくれた人で、われわれの世代ではピカ一の考古学者です。日本の古代国家の成立にかんする彼の学説がありまして、これはもうずいぶん前に彼が唱えたものなんですが、もう何十年にもなるのだから、とっくに崩れていないといかん。「だけど、川北さん、崩れへんねん。これは何かおかしい」と彼は言うんです。
僕も、ちょっと口はばったいけれども、「帝国とジェントルマン」とか言いだして、帝国史の研究会とか生活史とかいろいろやって、ある時期まではずいぶん発展して、けっこう皆さんに認めてもらうということができました。しかし、「帝国とジェントルマン」というのはひとつのシェーマなのだから、どこかで崩れるはずのものだと思っています。大塚史学というものは・・・(p201)。この項続く。