4月24日の日経新聞「発信・被災地から」は「住民を裏切った。東電幹部 復興支援に奔走福島に残り償いの日々」として、東京電力福島復興本社代表の石崎芳行さんを取り上げていました。
・・・東電の福島のトップとして現場を回り、仕事に没頭するのは、重い罪と責任を背負う苦悩を打ち消すためかもしれない。
仮設住宅での生活支援や帰還に向けた草刈り、イベントの手伝いなど、復興本社の業務は幅広い。思うように進まないこともある。特に避難者への賠償問題は互いの利害が絡み合う。「避難にはいろんなケースがあり、一律の基準では償いきれない部分があると東京(の親会社)に伝えることはあるが、賠償のルールを曲げるわけにはいかない」と組織人として複雑な思いをのぞかせる。
自分が直接関与していない事故で、頭を下げ続けることに抵抗を感じる社員も少数いる。東京の役員の発言に、事故の風化を感じることもあるが、「加害者であることは変わらない。それでも我々を復興の仲間にしてほしい」と訴える。少しずつ笑顔で接する住民が増えてきたことが救いだ。小さなことを積み重ね、まず個人として認められる。「その先にいつか会社が許される日がくるかもしれない」と願う・・・
会社としての責任、社員としての償い、難しいものがあります。本文をお読みください。記事にもまた写真にも出ているように、石崎さんは、つらい立場と仕事であるにもかかわらず、いつも穏やかな表情をしておられます。頭が下がります。
ところで、私は大震災の仕事に就いてから、組織としての事故を起こした責任とその償いを、考えてきました。
地震と津波は天災なので、神様を恨むしかありません。しかし、原発事故は、事故を起こした東電と、それを防ぐことのできなかった国(経産省、原子力安全・保安院)がいます。さらに事故が起きた後も、適切な事故収束作業がされたのか、適切な避難指示がなされたのかも問われています。
東京電力は法人として存続しているので、事故を起こした責任と償いを続けています。賠償を支払うだけでなく、石崎さんを先頭にして職員が現地で、被災者支援や復興のために汗をかいています(活動事例)。
他方で、原子力安全・保安院は廃止されました。原子力規制業務は、環境省に原子力規制委員会・原子力規制庁がつくられ、そこに移管されました(別途、内閣府に原子力防災担当(統括官)が平成26年につくられています)。
国においては、原子力保安院が廃止されたことで、事故を起こした責任と償いの「主体」が不明確になったのではないでしょうか。原子力規制庁は、今後起こる事故を防ぐための組織であり、福島原発事故の後始末は所管ではないようです。もし、原子力保安院が存続していたら、被災地での避難者支援や復興には、何らかの形で「責任」をとり続けたと思います。
原子力災害対策本部現地本部の、後藤収・副本部長をはじめとする経産省の職員は、被災地で復興のために汗を流しています(原子力災害対策本部事務局はホームページがないようなので、リンクを張って紹介することができません)。私がここで指摘しているのは、責任ある組織の存続と償いです。
私はこれを、「お取りつぶしのパラドックス」と呼んでいます。比較するのは適当ではないでしょうが、日本陸軍と海軍も廃止されたことで、組織として「責任を取る」「償いをする」ことがなくなりました。国家としては、ポツダム宣言の受諾と占領による政治改革、東京裁判とその刑の執行、関係国への賠償などはあります。
個別の組織が存続していたら、戦争を遂行した組織としての「残されたものとしての責任」を果たすことがあったと思います。それは、記録を残すこと、原因の究明、再発防止策、そして「償い」です。陸海軍は廃止されることで、これらが途絶えてしまったのではないでしょうか。
組織としての「強さ」は、事故を起こさないこと(どんなに使命を果たすか)とともに、事故を起こした後の振る舞いによって示されると思うのです。それは、人も同じです。