会話と対話と論戦と・その2

平田オリザさんのインタビューの続きです。
「日本政治に足りないと言われてきたのは、『対話』ではなく、『討論』『論戦』だったのでは?」という問いに対して。
・・対話とディベート(討論)は、どこが違うか。ディベートは、自分の価値観と論理によって相手を説得し、勝つことが最終目標になる。負けた方は全面的に変わらないといけない、勝った方は変わる必要がありません。しかし対話は、勝ち負けではありません。価値観をすりあわせることによってお互いが変わり、新しい第三の価値観とでも呼ぶべきものをつくりあげることが目標になります・・

「日本の国会で繰り広げられているのは、討論でもないように思います」という問いには。
・・そう、討論でもない
・・言葉から受け取るメッセージは人それぞれで、あいまいさが残る。そこをきちんと詰めて文脈をはっきりさせるのが、野党やジャーナリズムの責任です。しかし日本では自民党政権があまりにも長く続いてきたため、野党やジャーナリズムの政権攻撃は、あいまいさを詰めるというよりは、政権がやろうとしていることそのものを否定するというやり方をとってきました。
野党は、政府与党が聞く耳を持っているとはハナから思っていないし、政府与党も、野党の意見に耳を傾ける必要があるなんて思っていない。特に1980年代まではイデオロギーの対立があったから、文脈をすりあわせるような対話や熟議は望むべくもないし、討論とさえ呼べないひとりごとで国会が埋め尽くされるようになってしまったのだと思います・・

後段について、私はジャーナリズムの役割や責任も大きいと思います。政府与党への批判は重要ですが、代案のない批判は建設的ではありません。また、対話や討論は、政策を巡ってされるものですから、それなりの勉強が必要です。政局報道は、対話や討論とは違う次元の報道です。