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社会

先生と生徒との対話

5月9日の日経新聞教育欄、三田村裕・東京都八王子市立上柚木中学校長の「教員と生徒の対話時間創設」から。

東京都八王子市立上柚木中学校は全8学級、生徒数260人ほどの小さい中学校である。本校は2022年度から週1回「ユニバタイム(UT)」という時間を設けた。この名称はユニバーサルタイムの略で、様々な生徒を分け隔てなく支援で包む時間にしたいとの思いを込めた。
その基本は教員が生徒と一対一で向き合うことにある。複数の生徒と教員1人でもいい。勉強、部活動、進路、友人関係など生徒が話したいことを話したい教員と対話する。補習を受けたければそれもありだ。

UTは水曜日の5時間目に2コマ(1コマ20分)設定。教員は1コマずつ違う生徒と話すことが基本だが、40分間通しで対話することもある。生徒が話したい教員や相談内容を記入した申込書を担任に提出すると、当該の教員から時間や場所を指定した「招待状」が担任経由で届く。
UTの時間を確保するため、毎週水曜日は4時間授業にした。午後0時半過ぎに4時間目が終わるとUTのない大多数の生徒は給食後下校し、午後3時まで自宅学習に取り組む。
しかし、最初は生徒から申し込みがないことが予想された。生徒全員に教員と一対一で話すことのよさを実感させる必要もあると考えた。そこで22年度は生徒全員に1回、UTを体験させるようにした。多い教員は38人から申し込みがあり私も十数人と対話した。

1970〜80年代のように中学校が荒れた時代と異なり、今は素直で穏やかな生徒が多い。大人が理想とする子どもの姿を知っていて、それが彼らの行動基準にもなっている。
これは悪いことではないが、自らエネルギーを発動し自ら考え行動する点が弱い。だがこうした力こそ、これからの時代に求められるものである。
そこで本校は22年度、校訓を「自主自律」から「自己決定 自己実現」に変えた。我々の理念である「一人ひとりを大事に」を実行しながら自己実現を図れるようにする。UTはそれを具体化するのに貴重な一歩であると考えている。

平等社会の負の機能3

平等社会の負の機能2」の続きです。戦後の平等社会思想が生んだ負の機能に、エリートをつくらないことがあります。

平等はよいことです。しかし、組織を動かすときには、全体を考える幹部と、与えられた役割を実行する構成員とで、役割分担することが機能的です。そのような関係をつくらず、全員が同等という組織もあります。同好会や議会です。ホラクラシーと呼びます。「階統制組織と平等的組織

日本人の勤勉さに変わりがないのに、バブル経済崩壊後に日本の経済が停滞したのは、企業幹部、政府幹部、官僚に責任があるのでしょう。社員は、上司に言われたことを実行しているのです。彼らが突然、働かなくなったわけではありません。社員が従前通りに働いていて会社の業績が悪くなった場合は、経営陣に問題があります。

「平等思想」では、管理職と社員の仕事と責任のあいまいさを生みました。なるべく、全員が納得して仕事を進める形がよいとされました。しかし、その組織の進むべき方向を決めたり、新しい仕事の目標と期限を決めたりする場合には、管理職が責任を持って、時には部下全員の同意を得ることなく、決める必要があるのです。ところが、平等思想で育ってきたサラリーマン幹部は、それができませんでした。
平等思想は組織がうまくいっている、売り上げも利益も伸びている条件の下では機能しますが、うまくいっていない場合には機能しません。内向きの論理でしかないのです。「組織構成員の分類その3。階級の区別

管理職教育を受けていない従業員が、選抜されて管理職になります。しかし、よき従業員の能力と、管理職に求められる能力とは異なります。それを、自らの体験で身に付けよというのが、これまでの日本の職場でした。ここに書いた業績低下の問題以外にも、管理職教育を受けていない管理職が部下の指導に困る場合が増えています。従来型の管理職選抜の仕組みに限界が出てきています。

平等社会の負の機能2

平等社会の負の機能」の続きです。平等社会という思想が、経済停滞とともに負の機能を発揮している二つ目です。それは「縛られる日本人2」に書いた長時間労働です。

家庭を顧みず、私生活を犠牲にして働くことを、一般の労働者に求めることの「ひどさ」です。私は、エリートが時に長時間労働を求められる場合や、私生活より仕事を優先しなければならない場合はあると思います。それが、エリートの務めです。企業にあっては経営者や幹部、役所にあっては幹部とその候補生・・・。他方で、一般の労働者は、勤務時間内に言われたことを処理すればよいのです。

なぜ日本で、長時間労働や会社など組織への忠誠が求められたか。そこには、「平等社会」の負の機能が働いていると思います。
「上司も部下も分け隔てなく」「上司も部下も一丸となって」といった表現は、うまく機能しているときはよいのですが、そうでないときは逆の機能を発揮するのです。勤務時間が決まっている労働者、給料分だけ働いている労働者に、幹部やエリートと同様の労働と忠誠を求めたのです。
幹部と一般職員とに、はっきりした区分があれば、こんなことは起こらなかったでしょう。

平等社会の負の機能

戦後の民主主義がもたらした素晴らしいものの一つに、平等があります。
憲法による法的な平等の保障も重要ですが、暮らしを平等に近づけた経済発展の方が重要だったと私は考えています。いくら法の前では平等と言われても、貧富の差が大きかったり、就くべき職業が決まっていたりすると、実質的な平等は実現できません。
昭和後期の「一億総中流」は、大金持ちが貧乏になったというより、貧乏な人たちの所得が上がったのです。農村で貧しい暮らしをして古いしきたりに縛られていた人たちが、都会に出て勤め人になり所得も上がり、社会の拘束からも自由になりました。

ところが、平等社会という思想が、経済停滞とともに負の機能を発揮しています。
一つは、「「庶民感覚」が商売の足を引っ張る」で書いたことです。
発展している時期には、「あの人も金持ちになったんだから、私も頑張ろう」とか「あの家も子どもを大学に行かせたから、我が家も努力して行かせよう」と、成功した人をうらやましく思いつつ、自分も努力しようと考えました。
ところが経済が停滞すると、「どうせ私が努力しても、あの人のようになれない」と思う人もでてきます。そこに、あの記事に書いたように、「庶民感覚」なるものを基準に、成功した人をやっかむという暗い言論が出てきます。

各人の思いを遂げることができるようにするためには、自由な社会が必要です。そこでは、努力の差、持って生まれた能力の差、環境の違い、そして巡り合わせという運によって、成果の違いが出ます。100メートル競走、大学入試、会社での出世などなど。「結果の平等」は望むことができません。それをしたら、多くの人が不満を持つでしょう。
他方で、あまりの不平等は、社会に不満を生みます。必要なのは、出発点での一定の平等「機会の平等」です。

「芸人のクセに作家気取り」

日経新聞夕刊「人間発見」、「芸人・又吉直樹さんが語る「普通とは何か」表現手段としてのお笑い、文学」。4月27日の「「芸人が芥川賞」の偏見」から。

・・・受賞後「芸人のクセに作家気取りですよ」などとテレビ番組で発言されたことがあります。そうした偏見は驚きません。驚いたのは、一部の文学者の反応でした。
性別や年齢や国籍や職業などあらゆる事柄が平等であるべきだと言ってきたのが言論人です。ところが「芸人が小説を書いた」という面だけを切り取って語る文学者がいたのです。失望しました。それは「今の時代、差別はダメです」と形式的に言うのと同じです。差別はいつでもダメに決まっている・・・