カテゴリー別アーカイブ: 政と官

行政-政と官

政策をどこで誰が決めるか

9月28日の朝日新聞オピニオン欄に、「最低賃金、政治主導の限界 今なお低水準、地域間格差も深刻」が載っていました。記事の内容は、最低賃金の金額についてですが、ここでは、その決定過程について取り上げます。

・・・最賃は企業が最低でも支払わなければいけない賃金(時給)で、罰則規定もある。毎年審議され、都道府県ごとに決まる。まず、中央最低賃金審議会が都道府県をA~Dの4ランクに分けて目安を示す。これを参考にした地方最低賃金審議会の答申を受けて各労働局長が決める。いずれの審議会も、学者などの公益委員▽労働組合が選んだ労働側委員▽企業経営者などの経営側委員の三者で構成される。
中央の審議会では毎年、労使の意見の隔たりが埋まらず、最終的には公益委員の見解が答申になる。そこに政権の意向が大きく影響してきた。
新型コロナを受け、経営側から最賃の凍結を求める声が上がり、政権も理解を示した。審議では引き上げを求める労働側が押し切られた。地方では40県が1~3円の引き上げを決めたが、東京、大阪など7都道府県は引き上げを見送った。東京の審議会では採決の際に労働側が抗議の退席をした。新しい最賃は10月から順次発効する・・・

私は、このような審議会で利害対立を調整する方法はおかしいと考えています。かつて、「審議会政治の終わり?」に、次のように書いたことがあります。
・・・社会に利害対立がある場合、その両者と公益委員を入れた3者協議の場が作られます。国や自治体でもそのような3者審議会は、この賃金などの他にも例があります。かつては、公共料金、米価などが花形でニュースになりました。
政府の審議会は、シナリオを官僚が書くので、「官僚の隠れ蓑」と批判されました。ところが、この3者協議の形の審議会は、官僚の隠れ蓑ではなく、「政治家の隠れ蓑」と見る見方もあります。すなわち、社会の利害対立を調整するのは、本来は国会なり政治の仕事です。しかし、その調整を、省庁におかれた審議会に委ねるのです。そして、両者が意見を述べ、中立の立場の公益委員と官僚が、落としどころを探るのです。
政治が解決せず、丸投げされた官僚機構が編み出した「知恵のある解決の場、方法」だったのです。国会の場で大騒ぎにせず、審議会の場で静かに片を付ける。日本流の一つの解決方法でした。しかし、「官僚主導でなく政治主導で」という理念を実現するなら、このような審議会は不要になります・・・

参考「審議会の弊害1」「審議会の弊害2

中島誠著『立法学』第4版

中島誠著『立法学』(法律文化社)の第4版が出ました。
元は、九州大学助教授に3年間出向した際の講義をまとめたものです(2004年初版)。4版が出るのは、すばらしいですね。

内容は立法技術論ではなく、日本の立法過程論です。省内過程、政府内過程、与党内過程、国会内過程の段階ごとに説明しています。そして、政官関係、官僚制、マスコミ、政治主導などを取り上げています。
問題関心は、「政と官のありかた」です。官僚としての経験をもとに、立法過程を通して政官関係を分析しています。最近の変化も取り入れています。類書がないので、役に立つと思います。

アメリカ外交に見る官僚の重要性

12月2日の日経新聞オピニオン欄、ジャナン・ガネシュ(ファイナンシャルタイムズ・USポリティカル・コメンテーター)の「米の官僚「不在」、対中冷戦に影」から。

・・・米国が旧ソ連との冷戦に勝利するのにブルージーンズやロック音楽、ベルリンの壁の撤去を呼びかけたレーガン大統領の演説などが効いたと思うと喜ばしい。
もっとも冷戦で「封じ込め」政策を提唱したのは国務省のジョージ・ケナンだった。それを軍事的戦略に仕立てたのも同じ国務省のポール・ニッツェだ。中国をソ連から引き離す取り組みは1972年のニクソン大統領の中国訪問より何年も前から水面下で続けられていた。

政権交代に影響されない官僚が舞台裏にいなければ、米国がソ連を制することはできなかっただろう。裏方の努力で大局的な見地や揺るぎない方向性といった民主主義国家が独裁国家に対抗するうえで重要なものがもたらされた。
米国が今度は中国と向こう数十年、覇権を競うというなら「ディープステート(闇の政府)」が再び必要になる。ホワイトハウスの元ロシア担当フィオナ・ヒル氏や在ウクライナ大使館の参事官デービッド・ホルムズ氏など、トランプ大統領の弾劾調査で議会証言したような官僚たちだ・・・

・・・米国人でない筆者にはディープステート、つまり行政府は米国の宝のように思える。行政府は誰にでも開かれた民主主義を支える。先日、議会証言した人々のように勤勉で公共心が強く、専門的な資格を持つ官僚が大勢働いている・・・

行政化する日本政治、その2

前田健太郎・東大法学部准教授の「行政化する日本政治」の続きです。
先生は、1990年代に佐々木毅先生が、野口さんと同様に、政治思想の研究者が行政学の研究動向を批判したことを取り上げます。政党優位論への反論です。

・・・佐々木の批判の要点は、こうした政党優位論が、政治家の役割に関する不適切な理解に立っているということであった。民主政治における政治家の役割とは、ただ単に個別の政策分野で官僚に対して影響力を行使することではない。むしろ、政治家の役割とは、政党を組織することを通じて、様々な政策分野を横断する政策パッケージを提示し、その中身を他の政党との論争を通じて鍛え上げることである。族議員のように、選挙区単位、業界単位の特殊利益を代弁し、その利益を当該分野の所管官庁の予算獲得を支援することを通じて実現しようとする政治家は、本来果たすべき役割を果たしていない。政党優位論が見出したのは、「政治家の官僚化」なのである・・・

・・・1990年代以降に展開した政治主導のための諸改革の行き過ぎが忖度の問題を生み出したのではない。むしろ問題は、政治主導が、政治家同士の論争を通じた政策決定ではなく、首相の権限強化を通じたリーダーシップの行使と理解されたことにある。その帰結として、与野党間はもちろん、与党や官僚制内部においても政策を巡る論争が低調になったのである・・・

鋭い指摘です。原文をお読みください。
私も、官僚の評価の低下の原因の一つは、政策を議論しないことにあると主張しています。政策を決定するのは、内閣です。そして、決められたことを実行するのは、官僚の役割です。しかし、政治家に対し、必要な政策、選択肢としての政策を提示することも、官僚の重要な役割です。
毎日新聞「論点 国家公務員の不祥事」」「毎日新聞「論点 国家公務員の不祥事」その2

行政化する日本政治

東大出版会PR誌「UP」9月号に、前田健太郎・東大法学部准教授が、野口雅弘著『忖度と官僚制の政治学』の書評「行政化する日本政治」を書いておられます。

近年の日本の官僚制における「忖度」について、一般的には、首相の権力基盤が強化され「政治主導」あるいは「官邸主導」が実現したから、官僚たちはその意向を忖度して行動するようになったと言われていると指摘した後で。
・・・しかし、今回紹介する野口雅弘著『忖度と官僚制の政治学』(青土社、2018年)は、こうした説明とは全く異なる議論を展開している。本書によれば、現在の官僚制における「忖度」の問題は、政治主導に起因する現象ではない。むしろ、この現象は政治が「行政化」していることに由来する。つまり、忖度の広がりとは、政治家が官僚を従わせていることではなく、政治家が官僚のようになってしまっていることの現れだというのである・・・

・・・官僚の「忖度」が指摘されるようになった背景として、本書は1990年代以降の日本政治における「アカウンタビリティ」の広がりに注目する。この言葉は「説明責任」と訳され、政治家や官僚といった政治エリートが自らの行動を社会に対して説明する責任を意味する表現として用いられてきた・・・
・・・この過程(情報公開制度や新公共管理論の発展)において、本来は二種類に区別されていたアカウンタビリティの概念が混同されるようになったと本書は指摘する。第一は、官僚のアカウンタビリティである。これは、行政の執行手続きが公正・中立に行われ、そこに恣意性が含まれないことを意味する。第二は、政治家のアカウンタビリティである。これは、自らの立場の持つ党派性を明確にしたうえで、その立場に基づいて対抗勢力との論争を行うことを意味する。ウェーバーが『仕事としての政治』において展開した官僚と政治家の役割の区別に従えば、官僚は「怒りも興奮もなく」政治家の決定を実行し、政治家は対立する価値を巡る「闘争」を通じて意思決定を行うのである・・・

・・・この二つのアカウンタビリティのうち、1990年代以降の日本で主流となったのは、官僚のアカウンタビリティであった。すなわち、本来は野党との論争を主たる役割とするはずの政権与党の政治家たちが、政策決定を行う際、自らの党派性を前面に出すのではなく、むしろ自ら政策が他に選択肢のない、客観的で中立的なものだという、あたかも官僚のような論理を用いるようになった・・・
・・・このように論争の可能性を排除しようとする説明の仕方は、政治家の作法ではない。むしろ、それは政治が「行政化」していくことを意味する(243頁)。そして、政治から論争が排除されることが、「忖度」の広がりの背景となる。というのも、政策的な論戦が行われにくい環境の下では、政策を立案し、論争する能力に長けた官僚よりも、官邸の中枢の意向を先回りして読み、関係者の利害を調整する能力を持つ官僚の方が出世しやすいからである・・・
この項続く