カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」執筆状況

毎日、多くの人にこのホームページをご覧いただき、ありがとうございます。もうじき、430万人に達します。久しぶりの「連載「公共を創る」執筆状況」です(前回4月6日)。
8月29日掲載予定の第196回は校閲もすみ、掲載待ちです。9月5日掲載予定の第197回はゲラができて、校閲待ちです。9月12日掲載の第198回は、原稿を編集長に渡しました。

これでひとまず、第170回(去年の12月)から続けてきた「官僚の人事政策」が終わります。さらに、去年5月から書いてきた「第4章 政府の役割再考 3 政府の役割の再定義(1)社会の変化と行政の役割」が終わります。
いつものことですが、こんなに長くなるとは思いませんでした。書いていくうちに、「そうだこんなこともある」「これにも触れておこう」と次々と広がります。また、原稿に目を通してもらっている右筆さんが、欠けている点を指摘してくれます。

私は先週から、次の「政治の役割」を書いています。なので、第196回、第197回、第198回、第199回が、同時に走っています。
新しい項に入るので、まずはその中の構成を思案中です。連載執筆で、一番悩むのは、この構成を考えることです。それができれば、別途書きためてある「部品」を集めて、文章にすればよいのです。もちろん、その作業も簡単ではありませんが。
夏休みで気分は緩み、執筆意欲は落ちるのですが、締め切りを考えるとそんな悠長なことは言っておられず。早起きして、原稿に向き合っています。その甲斐あって、なんとか、粗々の構成を作り、最初の部分を書き始めました。

当初、「全体の構成」では、「政治の役割」は一つの項を立てることなく、「(1)社会の変化と行政の役割」の中で、「政と官」を書けばよいと考えていました。この連載の副題は「新たな行政の役割」です。
しかし、機能不全と思える官僚機構を機能させるためには、官僚の努力だけでは限界があります。政治主導の時代に、官僚だけが勝手なことはできないのです。官僚機構を使いこなすのは、政治の役割であり、国民の意向です。そこで、「政治の役割」を項として立てることにしました。これも、書こうと思えば、書くことはたくさんあります。

連載「公共を創る」第195回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第195回「政府の役割の再定義ー官僚への信頼を取り戻すには」が、発行されました。

前回、幹部官僚には、必要な能力とともに、「志」と「やりがい」が重要だと説明しました。私が国家公務員になった頃(1978年)には、まだ官僚はエリートだという意識が社会にも官僚にもありました。しかし、1990年代の過剰接待事件を機に、官僚への信頼は地に落ち、戻っていません。また、エリートという言葉は死語になったようです。

かつて、官僚の失敗を聞かれ、私は3つの次元に分けて説明しました(2018年5月23日付け毎日新聞「論点 国家公務員の不祥事」)。
・官僚たちの仕事の仕方の問題
・個人の立ち居振る舞い
・国民の期待に応えているか、です。

1番目の問題と2番目の問題は、あってはならないことですが、いつの世でもどの組織でも起きる問題です。
それに対し3番目の問題は、構造的に取り組まなければなりません。私が考えるに、それは明治以来1世紀半ぶりの大転換です。その問題意識で、この連載を書いています。

連載「公共を創る」第194回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第194回「政府の役割の再定義ー幹部官僚に必要な能力と企業幹部との違い」が、発行されました。今回は、幹部官僚の役割と育成を考えるために、民間企業の幹部養成と比べてみます。

企業幹部は社長と取締役会、幹部公務員は首相と大臣という、組織の最高責任者の下で任務を果たして評価を受けます。組織の「幹部」という点で、共通するのです。共通しているのは、組織の維持とその組織が社会での役割を果たすという目的の下、「政策の立案や商品の開発」と、そのための「組織・職員管理」を任務としていることです。
このうち、後者の組織・職員管理は官と民とで大きな違いはないでしょう。一方、前者の政策立案においては、組織の目的の相違から、異なる部分があると考えられます。幹部官僚は、対象とする業務が公平性や公益性を求められる公共業務であることから、「目指すべき価値」「受ける制約」「必要とされる能力」に違いがあるのです。

「目指すべき価値」は、国民全体の福祉向上を考えること。「受ける制約」は、法律に従い、公平性が求められることなど。「必要とされる能力」は、その政策分野の専門家であること、 政策立案に際して実現可能性と与える影響を考えること、政策実現に際しては、内閣内や与党内での手続きを考えることなどです。
幹部官僚に必要な能力に、もう一つ重要なものがあります。政治的文脈を読むことです。幹部官僚が政策を考える際には、白地で考えるわけではありません。案件が社会で生まれた新しい課題であったり、大臣から下りてきた案件であったとしても、これまでの政府の政策体系や、大臣や内閣の政策選好との整合性を考える必要があります。これが、企業幹部から幹部官僚に転職した際に、最も困難な能力かもしれません。

その上で、それらの底には、「志」と「やりがい」の違いがあるのではないかと思います。

連載「公共を創る」第193回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第193回「政府の役割の再定義ー日本全体の中長期的な課題と対策の検討を」が、発行されました。前回から、幹部官僚に自らの所管範囲を超えて、広く日本の在り方を考えさせる方策を議論しています。

官邸主導によって、省益や局益優先を排除しなければなりません。ただ、長い間「省」という単位で政治と社会が動いてきたこともあって、この思想と慣習は根強いものがあります。そして、官僚が省益を超えた発想を持とうとしたときに、逆にその担当分野に押し込めてしまう仕組みができています。いわゆる政官財の三角形です。各省と利害を一致させていた官僚以外の集団が、官僚の変化の足を引っ張る役割をしてしまうという構造です。これは、官僚機構側の問題というより、政党側の問題です。

次に、広く日本の在り方を考える組織についてです。各省や各局は、内閣の事務を分担管理するための仕組みです。「分担」や「所管」という観念から、離れることはありません。すると広く日本全体を考えるためには、それら分担管理の上に全体を考える組織と機能が必要になります。
内閣官房には、内政担当と外政担当の2人の内閣官房副長官補が置かれ、内閣の重要政策に関する企画立案や総合調整を行っています。職員は各府省から集められます。そのような場で、職員は所属府省の垣根を越えて課題を与えられ、検討し、その結果に応じて各省を指導します。この経験は、育ってきた府省を超えて、広く日本を考える良い機会になります。ただしこれは、あくまで内閣官房副長官補の下での事務的な調整部局であり、政治家や各省大臣を含めて方針を打ち出す組織ではありません。
内閣官房は、各府省の所管を超えて広く政府の課題を考えますが、その課題は首相から下りてくることが多く、「何が取り組まれていない課題」か「どのような課題を取り上げるべきか」という発案機能は備えていないようです。

会社にあっては、社長の下に企画部門があります。それは、人事・組織管理部門や予算・会計部門と共に戦略を担う重要組織です。組織を動かす基本的要素は、情報、人、資金です。県庁や市役所でも同じで、首長の下に企画、人事、予算があります。ところが中央政府では、予算は大蔵省・財務省があり、組織管理は総務省行政管理局がありましたが、人事についてはかつてはほぼ各省に委ねられていて、近年ようやく内閣人事局がつくられました。しかし企画にあっては、全体を見る部門とそこで働くべき人材は、いまだないのです。

連載「公共を創る」第192回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第192回「政府の役割の再定義ー行政組織のパラドックス」が、発行されました。前回から、幹部官僚に職務を果たさせることを議論しています。まず、自らの所管行政についてです。

制度を所管している、それを運用すればよいという「制度所管思考」から、所管範囲で課題を見つけ取り組むという「課題所管思考」に転換しなければなりませ。その思考を、若いときから植え付ける必要があります。それを指導するのは局長であり課長の役割です。もっとも、それをしたことがない、それに消極的な上司も多いのです。この「社風」を変える必要があります。
もう一つは、外部からの入力です。かつてはほぼ局ごとに審議会があり、有識者を入れて新しい課題と解決方向を議論していました。これは、有用な仕組みです。地域で起きる新しい課題について、研究者、報道機関、非営利団体、そして自治体は官僚より情報を持っていることが多いのです。審議会という形式にこだわらず、彼らの知見を取り入れて新しい課題に取り組むことがよいでしょう。

さて、パラドックスとは、次のようなことです。制度を所管している組織の方が、所管していない人より課題を見つけやすいと考えますが、そうならないことがあるのです。制度を所管していると、それの運用に注力し、課題が発生していても気がつかないことが起きるのです。例えば、その制度に関して補助金を持っていると、補助金配分だけで終わってしまうのです。