カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」第206回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第206回「政府の役割の再定義ー内閣の政策立案と「官邸主導」」が、発行されました。政治主導がうまくいっていないことについて、「官邸主導」の問題を議論しています。

首相が新しい発想で新しい政策に取り組むことは、重要なことです。しかしその際には、唐突に指示を出すのではなく、しかるべき手順を踏んで政策に作り上げることが必要です。
中曽根康弘内閣の臨時行政改革推進審議会、橋本龍太郎内閣の行政改革会議など、歴代首相は、内閣の方向性を考えるための大きな視野の「知恵袋」を持ち、そこでの議論を通して自らの内閣の方針とその策定過程を国民にも開示してきました。

省庁改革では、重要事項を審議するために「重要政策に関する会議」をつくりました。一般的な審議会では、首相や大臣が外部有識者から成る審議会に審議事項を諮問し、報告を受けます。しかし重要政策に関する会議では、主に首相が議長になって審議を進めるのです。
経済財政諮問会議はその一つで、経済財政政策に関する重要事項について調査審議します。小泉純一郎首相がこの会議を活用し、毎年夏に「骨太の方針」を策定することで、官邸主導の予算編成と政策決定を行いました。
その後も経済財政諮問会議は開かれ、「骨太の方針」はつくられていますが、かつてほど活用されていないようです。

官邸主導の問題の一つは、首相が次々と指示と目玉政策を出すのですが、それぞれの政策の評価がなされないままに、次の政策が提示されることです。
しばしば、首相が記者会見で目玉政策を発表したり、会議の場で指示を出したりする映像が流れます。それは、首相の政治主導ぶりを見せる良い方法ですが、政治主導は指示を出すことだけでなく、それが適切だったか、そして良い成果を生んだかによって判断されなければなりません。

連載「公共を創る」第205回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第205回「政府の役割の再定義ー「官邸主導」の問題点」が、発行されました。

第2次安倍晋三内閣は、首相の政治主導が際立ちました。それは「官邸主導」と呼ばれましたが、これまで目指された政治主導とは違っていました。
首相が記者会見や施政方針演説で「唐突に」大きな政策を打ち出すことで、国民への訴求力は高まったと思われます。しかし事前に関係者による討議を経ていないので、その問題点や実現過程について十分な検討がなされていない恐れもあります。そしてその唐突さは、予測が立たないことで、官僚たちを右往左往させたようです。
また、官邸の判断と違う政策を大臣以下の判断では実施できなくなってしまうことから、各省の官僚たちが政策を考えなくなり、「指示待ち」になってしまったともいわれます。

例えば、新型コロナ感染初期の一斉休校も混乱を引き起こしました。
2020年2月に、安倍首相が感染拡大防止のために学校の休校を打ち出しました。この判断は正しかったと思われますが、その唐突さが問題を生じさせました。首相がその方針を表明したのは木曜日の夕方で、休校は翌月曜日からでした。
保育園や学校、学童保育が休みになると、働いているお父さんとお母さんのどちらかが、仕事を休んで面倒を見ることになります。それぞれ、月曜日の仕事の予定が入っていたでしょう。せめて週の前半から、休校の可能性とその理由、実施の際の問題点などを公表しておいてもらえれば、対応策を講じることもできたでしょう。

連載「公共を創る」第204回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第204回「政府の役割の再定義ーうまくいっていない「政治主導」」が、発行されました。
第199回から、政治主導の在り方を議論しています。今回から、これまでの実績を振り返り、改革が意図通りになった点とうまくいっていない点を議論します。まず、「政治家と官僚の役割分担」を説明します。

目指した政治主導は、単純なことでした。政治家は期待される本来の仕事をし、官僚も自らの役割を果たす、ということです。官僚が政策のお膳立てをし、首相と閣僚はそれに乗っかるのではなく、首相や大臣が政策立案を主導する、官僚はそれを補佐し、決められた政策を実行するというものです。政と官の役割分担の明確化、適正化です。
省庁改革が2001年に実行されてから、ほぼ四半世紀が経た ちました。政治主導は実現したでしょうか。まだ道半ばでしょう。その理由は、政府が社会の課題に対して適切な政策を打てていないという現状があり、それは政治家と官僚が十分に務めを果たしていないからだと思われるからです

これまでの運用を振り返ると、その問題は三つに分類するとよいと、私は考えています。一つは、政治家と官僚の役割分担が、うまくいっていないことです。次に、政治家が政治主導を使い切れていないことです。そして3番目は、政治家と官僚の意思疎通がうまくいっていないことです。

2009年に政権についた当時の民主党は、政治主導を徹底するとして「脱・官僚主義」「脱官僚」を掲げました。政策決定は政務三役が行い、官僚は政務三役が行った決定を執行するものとしましたた。しかし、すぐに行き詰まり、民主党政権の失敗の一つと記憶されました。
政務三役が政策の方向を決め、官僚に実施を指示することは、それ自体が間違ったことではありません。しかし、すべての政策を政務三役が理解し、判断することは無理なのです。

連載「公共を創る」第203回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第203回「政府の役割の再定義ー政治主導は成果を出しているか」が、発行されました。

かつて経済と社会が発展期だった時代には、官僚主導が効果を発揮しました。しかし日本が成熟社会になって、それが行き詰まり、政治主導が求められるようになりました。
1990年代にいろいろな行政改革が試みられ、最後に政治主導が改革の対象となりました。2001年に実施された中央省庁改革です。
中央省庁改革と呼ばれますが、その第一は内閣機能の強化でした。例えば、内閣総理大臣の指導性の強化として内閣総理大臣が閣議で案件を発議できるようにすること、内閣及び内閣総理大臣の補佐・支援体制の強化として内閣官房の体制強化と内閣府の設置などが行われました。
私はその具体化を行った中央省庁等改革推進本部事務局で、行政の減量担当参事官を務めました。

実行された政治改革には、1990年代の前半に行われた小選挙区制の導入など政党と選挙に関する改革(選挙制度改革、政治資金制度改革)と、2000年前後に省庁改革と同時に行われた政治主導への改革がありました。前者についてはすでに30年近くが経ち、省庁改革からは四半世紀が経とうとしています。それぞれに定着し、今となってはそれが当たり前だったように、何の混乱もありません。

しかし、当初考えられたような制度の機能を発揮して目的を達しているかという点では、完全な成功とは言えません。
政党と選挙に関する改革では、二大政党制を目指しました。政権交代はあったのですが、その後、自由民主党は政権に復帰し、非自民勢力は分裂して、二大政党制は定着していません。
政治主導は、総体としては現状ではまだ及第点はもらえないと評価しています。政治家と官僚が役割分担を明確にして成熟社会において良い成果を出すという、政治主導の目的はまだ道半ばで達成されていないと考えるからです。

連載「公共を創る」第202回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第202回「政府の役割の再定義ー官僚主導の限界と国民意識の転換」が、発行されました。かつての「官僚主導」がなぜ成り立ったのか、何が問題だったのか、そしてなぜそれが行き詰まったのかを説明しています。

官僚主導が存続したのは、冷戦下の一国平和主義と経済成長が続き、政治的決断の必要がないという前提があったためです。その前提が終焉を迎えると、官僚主導の限界が露呈しました。
1989年にベルリンの壁が壊れ、1991年にはソ連が崩壊し東西対立が終わりました。それで世界に平和が訪れればよかったのですが、重しの取れた世界は、逆に不安定になりました。地域での紛争が続出し、日本もまたそれに巻き込まれることになります。米軍の保護の下で平和を謳歌するという一国平和主義が、続けられなくなったのです。国内では経済成長が終わり、政府も増えてくる社会の富を分配だけしているわけにはいかなくなりました。あらゆる分野や地域に資源を投入することは、もうできません。

国際環境の変化と経済成長の鈍化で、従来の日本の路線が行き詰まってきたことが明らかになり、国民の間にも、「変えなければ」という意識が広がりました。
国民の意識は、まず自民党政権への不満という形で現われました。1993年には、細川護熙首相を担いだ8党・会派によって、非自民政権が誕生しました。長期にわたって続いた自民党政権が、ついに交代したのです。次に政策の企画などについて十分に役割を果たせなくなった官僚に対して、その幹部が過度で破廉恥ともいうべき接待や賄賂を受けていたこと、そして逮捕者が出たことなどもあって、不満が爆発ました。

このような時代背景や国民意識の高まりから、1990年代に、これまでにない改革が進みました。一つは地方分権改革であり、もう一つが中央省庁改革です。いずれも、昭和の頃から抜本的な改革を行うべきだと口にはされてきていましたが、ほとんどの人が「できっこない」と思い込み、実際に政府が具体的に手を着けることはなかった課題だったのです