カテゴリーアーカイブ:社会と政治

外国人との秩序ある共生社会の実現

2026年1月18日   岡本全勝

1月14日に外国人との秩序ある共生社会の実現のための有識者会議が、意見書を提出しました。詳しくは本文を読んでいただくとして、冒頭の「在り方」を引用します。

・・・我が国に在留する外国人数は、令和7年6月末時点で 395 万 6,619 人と過去最高を更新し、約 20 年前の平成 16 年と比較すると約2倍となり、出身国・地域も 196 か国・地域となっている。我が国に在留する外国人の増加に伴い、多数の外国人が在留することを前提としていなかった諸制度の在り方について国民の関心が高まり、また、一部の外国人によるものであるものの、我が国の社会規範を逸脱する行為について、国民が不安を感じる状況も生じているとの指摘がなされている。

しかしながら、我が国に在留する多くの外国人は、勤勉で社会規範を理解し、地域・産業を支え、日本社会に貢献してくれている存在である。また、日本社会は 20 世紀の長い期間をかけて、内外人平等を原則としてきた歴史を持つ。このような歴史にも鑑み、今後の我が国の安定と繁栄のため、社会規範を守りながら我が国で生活する外国人が正当に評価され、社会の一員として尊厳をもって生きられる社会を構築するとともに、国民・外国人双方が互いに尊重し、安全・安心に生活し、共に繁栄する社会の実現を目指すべきである。秩序は社会の土台、多様性は社会の力であり、この両者を両立させることが、真の秩序ある共生社会への道であると考えられる・・・

規則を守らない、犯罪を犯す外国人がいることに対し、排外意識が高まっているとの報道もあります。次の文章が、答えになるでしょう。
・・・目指すべき共生社会の実現に当たっては、我が国の社会規範を逸脱する行為に対しては、国籍に関わらず、公正かつ厳正に対処するとともに、在留する外国人の増加に対応できていない諸制度については適正化に向けて改善していくことが必要である・・・

結びには次のようにあります。
・・・我が国に在留する多くの外国人は勤勉で社会規範を理解し、地域・産業を支えてくれている。そうした外国人が正当に評価され、日本社会の一員として尊厳をもって生きられる社会、そして、国民・外国人双方が互いに尊重し、安全・安心に生活し、共に繁栄する社会を実現することが我々の使命である。他方で、我が国の社会規範を逸脱する行為に対しては、国籍に関わらず公正かつ厳正に対処し、また、在留する外国人の増加に対応できていない諸制度については、適正化していくことが必要である・・・

構成員に、田村 太郎・一般財団法人ダイバーシティ研究所代表理事も入っています。
ところで、外国人との共生社会の実現のための有識者会議は、法務省にホームページがあるのですが、外国人との秩序ある共生社会の実現のための有識者会議は、内閣官房副長官補本室のサイトに載っていて、どこに問い合わせたらよいのかなどがよくわかりません。

政治を動かす大衆、希望から不安へ

2026年1月15日   岡本全勝

2025年11月23日の読売新聞[あすへの考]、フランシス・ヴォルフ氏の「ナショナリズム過熱の脅威」から。気になったところを紹介します。

・・・私見では、西洋で近年、政治を動かしているのは大衆の抱く「不安」です。衰退の不安、アイデンティティー(自己同一性・帰属意識)喪失の不安、グローバル化の不安、他者に対する不安――。
19世紀半ばから21世紀初頭まで西洋の大衆が抱いていた感情は「希望」でした。「明日は今日より素晴らしい」というのはマルクス主義の歴史観でもある。子は親よりも良い暮らしが望めた。ところが2000年代後半以降、希望は不安に取って代わられた。

欧米でナショナリズムが大衆の不安を糧に勢いを増している。16年の英国の国民投票を通じた欧州連合(EU)離脱決定と米国第一主義のドナルド・トランプ氏の米大統領初当選はその表れです。大戦後、ナショナリズムの超克を期して欧州統合を主導してきた独仏両国でも「反欧州」を叫ぶ右翼政党が伸長している。大衆はナショナリズムという空間に「避難先」を見いだしているかのようです。
欧米で左翼の取り組む「アイデンティティー政治」も問題です。左翼は伝統的に人権や基本的自由に普遍性を認め、植民地主義に対抗し、男性支配を批判し、女性解放を擁護してきた。しかし近年は大衆の不安を前にして、人間は個々の人種・性別・性的指向・信仰で定義されるべきだと説いている。人と人を結びつける普遍性ではなく、人と人を隔てる個体性を優先している。これが私の分析です。
右翼はナショナリズムに拘泥し、左翼はアイデンティティーに固執する。二つの現象は、実は一つのことを意味しています。「人間は皆、同じ価値を持ち、万人は平等だ」という普遍性の否定です。

世界で民主主義が退潮しています。振り返れば、民主主義の高揚期は1970年代半ばの南欧の民政移管、80年代半ばの南米の軍事独裁の終焉、89年の東西冷戦構造崩壊に伴う東欧の民主化、91年のソ連解体などで刻まれた、20年に満たない期間でした。
20世紀の民主主義の危機は主に軍事クーデターでした。21世紀の危機の特徴は「非民主的な指導者が民主的に選出され、民主主義を攻撃する」ことです。ブラジルのボルソナロ前大統領、ハンガリーのオルバン首相が該当しますが、代表例はトランプ米大統領です。自分は国民に選ばれた以上、言論・出版の自由や司法の独立を含む基本的自由に介入する正当性があると確信しているかのようです。
選挙は民主主義の重要な柱ですが、より重要なのは基本的自由の擁護です。米国で基本的自由が脅かされています。
世間に満ちているのはSNSなどで拡散された感情です。冷静で論理的・科学的な理性は顧みられない。民主主義をもたらした啓蒙主義が危ういのです・・・

変容する政治と宗教の関係

2025年11月13日   岡本全勝

10月21日の読売新聞「公明連立離脱 変容する政治と宗教の関係 水島治郎・千葉大教授に聞く」から。

・・・水島教授は、労働組合や業界組織などの団体が個人をまとめて政党を支える仕組みが、20世紀後半の政治の構図だったと指摘する。各団体は、都会に出てきた地方出身者など、旧来のつながりから切り離された人々を包摂し、仲間を提供する場となり、政治参加の道を開いた。「戦後の新宗教も同じような機能を果たしていた。創価学会が支持する公明党だけでなく、自民党も様々な宗教団体を支持基盤としていた」
この構図は、西欧諸国でも同様だった。信徒が属する教会系団体に支えられ、キリスト教民主主義政党が政治を担った。「宗教を一つのベースとし、反共産主義の旗印の下に結集していた。教会やキリスト教団体は、信仰を共有するだけではなく、友人を作る場であり、市民が政治にかかわる経路ともなっていた」。水島教授は、宗教系の団体が、戦後の日欧政治における隠れた主役の一つだったと説く。

自公連立が20世紀の最終盤に実現したのは、両党の支持基盤に先細りが見えたためだが、そうした政治の到達点と見ることもできる。だが21世紀に入ると、中間的な団体は急速に力を弱めた。宗教団体の場合、親からの信仰の継承を拒む人や、私生活を優先する人が増えた。インターネットの発達で仲間作りも容易になった。「個人と団体との関わり方が根本的に変わり、両者の力関係が逆転した」
個人が政党支持に至る過程も、政治家の動画を見て判断するなど流動的になった。団体は縮小し、残った構成員は高齢化し、政治活動の熱も下がった。「個人―団体―政党」という安定した構図は一部のものとなった。「構成員をフル稼働させても選挙で勝てるとは限らなくなった。負ければ団体の存在意義に関わり、内部分裂にもつながる」とし、宗教団体にとって選挙がリスクになっていると指摘する。

一方で水島教授は「宗教団体の力は弱まり、団体に依存する政治のあり方は変わってきたが、宗教そのものの影響力は弱まっていない」と強調する。例えば欧州では、反イスラムで保守勢力を結集させる際、キリスト教が重要な旗印になっているという。「外部者を排除し、人々をまとめるために、自国の宗教的アイデンティティーが使われている」
実際、米大統領のトランプ氏や露大統領のプーチン氏、イスラエル首相のベンヤミン・ネタニヤフ氏ら、世界を揺るがせている政治指導者は一様に、宗教的アイデンティティーを前面に出している。「自分が信じているかは別として、宗教に訴えることが、政治家の戦略として効果的だとの感覚は持っているはず。宗教とナショナリズムは、人が命をささげるに値する究極の価値として意識される点で共通するものがある」・・・

・・・各国で共通するのは、宗教的アイデンティティーを前面に出し、人々をまとめる役回りを、急進的な右派勢力が担っている点だ。従来の宗教団体に支えられた中道保守勢力は弱体化している。今後について水島教授は、その傾向がさらに強まる可能性があるとする。
「社会は変わり目にあるが、宗教の役割は形を変えつつも衰えておらず、陰に陽に政治と結びついている。北欧など先進的とされる民主主義国でさえ、宗教と結びつく形で君主制も維持されている。日本でも、お祭りなど宗教的な行事への関わりは薄れておらず、皇室への関心は高い。現実の展開は、教科書的な近代化・世俗化とかなりずれているのではないか」・・・

グローバリズムとリベラルへの不信

2025年10月26日   岡本全勝

9月27日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「航海士なき世界で」から。

・・・今日、グローバリズムはほぼ信頼を失っている。そのことは欧米をみれば一目瞭然である。それでは、グローバリズムとは何であったのだろうか。
人、モノ、資本、情報、技術の国境を越えた移動を一気に高めるというグローバリズム(地球一体化)は、米国を中心とする冷戦後の世界標準となった。その柱は何かといえば、次の二つである。
一つは、米国流の「リベラルな価値」の世界化である。列挙すれば、個人の自由、民主的な政府、法の支配による世界秩序、合理主義や科学的思考、人種・ジェンダーの多様性、移民受け入れ、市場競争による効率性など。この普遍的な価値観で世界を画一化し、世界秩序を生み出す思想である。
もう一つは、先端的な科学技術のイノベーションと自由競争による経済成長追求であり、それによって世界中の富を拡張できるという信念である。

そしてこの両者ともに行き詰まってしまった。こういう意識がトランプ大統領を誕生させたのだ。
まず「リベラルな価値」からいえば、とりわけ民主党系のリベラルな政治家、官僚、ジャーナリズム、有名大学の学者、各種の専門家などの「上層の知的エリート」が進めてきたグローバル政策が、結局、米国社会の格差を生み、社会不安を作り出し、米国の経済力の低下を招いた、という意識が強い。つまり、「リベラル派のエリート」に対する大衆の不満と不信が膨れ上がった。
その結果、米国では、反エリート主義、反エスタブリッシュメントの心情が拡散していった。それが、既存の政治スタイルや既存のメディア、ハーバードのような伝統的大学といった権威に対する反感を募らせていった。その受け皿がトランプ氏であった。
一方、イノベーションと経済成長主義も今や十分な成果を上げられない。グローバル競争は国家間対立をもたらし、イノベーションは、膨大な研究開発費や資金を必要とし、しかもそれが一部の投資家へと富を集中させる。本当に国民の生活につながるという見通しはまったくない。冷戦以降の先進国の経済成長率は確実に低下しているのである。

これが、米国を中心にした今日のグローバリズムの素描である。そこに米中対立やら欧州の右派の台頭など不安的要因はいくらでも付け加えることができる。
その中で、米国はどこへ向かっているのか。グローバリズムを超える何かをトランプ政権は準備しているのだろうか。そうは思えない。それは信頼できる航海士を失ったさまよえる巨船のように世界を混乱させている・・・

AI社会で個人の尊重をどう守るか

2025年10月23日   岡本全勝

9月20日の朝日新聞オピニオン欄、山本龍彦さんと青井未帆さんの対談「AI社会「個人の尊重」は」から。近代市民社会、憲法は、自立した個人を前提にしていましたが、「弱い人」もいることがわかり、子ども、労働者、病人、障害者、消費者へと「保護の対象」を広げてきました。情報もその考察の対象とするべきなのでしょう。

――「すべて国民は、個人として尊重される」と定めた憲法13条では、様々な情報をもとに自分の頭で理性的に考えて選択する「強い個人」が想定されていました。しかし、SNSの隆盛や、刺激的なコンテンツで閲覧数を稼いで広告収益などを上げようとするアテンション・エコノミーが進んで言論空間に分断が生じる中、これまでの「個人」像が挑戦を受けているのではないでしょうか。

山本龍彦さん 夏の参院選の結果は両義的でした。これまでは組合や経済団体など様々な老舗組織の影響力が強く、個人が存在感を発揮できない面がありました。SNSから直接情報を得て判断することが当たり前になり、個人が従来型の中間団体支配から解放されたとみることもできます。
しかし、その個人の判断が本当に理性的で自律的だったかはわかりません。SNS事業者は、より多くのアテンション(関心)を獲得するため、AIを駆使して、その利用者が最も強く反応しそうな刺激的な情報を選別してオススメしています。既存メディアの情報から自由に、自分の頭で判断したと思った人もいるかもしれませんが、情報の選別や偏りがあるという点ではSNSも同じです。メディアの「色」よりもSNSの「色」の方が気づきにくいので、個人の意思決定に対する操作性は、より高まったとも考えられます。

青井未帆さん 参院選の結果についてはさらに分析が必要ですが、個人が脆弱な存在であるということは明らかになったと思います。

山本 AIの属性予測に基づいてカスタマイズされた「刺激」が次々とオススメされますから、個人はかなり脆弱な状態に置かれますよね。
個人の無力化は、個人データ保護の議論でも見られます。動画視聴時も商品購入時も、私たちの個人データは常に、大量にやりとりされ、いまや誰とどこで共有されているのか個人はわからない。これまでは本人同意が基本でしたが、もはやデータの取り扱いを個人がまともに意思決定するのは能力的にも無理なので、本人同意は諦めて、事業者のガバナンスを適正化していく方向にかじを切るべきだとの議論も有力化しています。憲法学でも、個人データに対する本人の主体性を認める「自己情報コントロール権」が通説でしたが、最近では批判も強く、その地位が揺らいでいます。
自己情報コントロール権への攻撃は、AI化を推進する立場からも起きています。AI化を強力に推進するには、データフローを最大化し、あらゆるものをシステムにつなぐことが求められます。そこでは、個人よりも社会全体の生産性を向上する「全体最適」が強調されることも多い。この立場からすると、データの世界で権利を主張する個人は、「滑らかな繋がり」を阻害するノイズでしかないのです。実はAI規制の文脈でも、特に米国では、個人に権利を主張させるのではなく、事業者側に透明性や説明責任など適正なガバナンスの構築を求める傾向があります。

青井 近代的な個人観は検討し直さなければならないでしょう。ネットワークの世界では、個人はネットワークにお世話をしてもらい、依存しているように見えます。人がこの世界に生まれ落ちた時、必ず誰かにお世話をしてもらわなくてはいけないという状況と近接している気がします。脆弱な存在です。
依存という点では、健康を損ない、最終的に他人や自分を殺したりする結果も生んでいます。実際に米国では、プラットフォーマーがアルゴリズムで若者をSNSに依存させ、心身の健康を損ねたとして裁判も起きています。チャットボットとの会話が日常的になり、AIを感情を持つ存在のように扱うことによるリスクも指摘されています。
一方で、繋がらない世界もあるわけです。私たちは「侵襲される身体」を持つ存在です。人は必ずだれかと関係を持ち、関係の中に人が存在する。身体性が優位な空間は、まだ残されているのではないでしょうか。

山本 デジタルの大海に放り出された個人には他者のケアが必要ですが、その「他者」は身体性をもった人間なのか、AIなのか。尊厳を重視するEU(欧州連合)では、重要な事柄をAIのみで自動的に決定されない権利が個人に保障されています。これは「人間」の関与を要求できる権利、身体的な関係性をノイズとして確保する権利とも言える。
その背景には、AIがつくり出す脆弱性や精神的疎外のケアを、生成AI自身に任せることは果たして可能なのかという問題がある。