カテゴリーアーカイブ:ものの見方

冷めた風呂現象?

2026年1月21日   岡本全勝

ゆでガエル現象」ということは、聞かれたことがあるでしょう。
カエルを水に入れてゆっくりと温度を上げると、カエルは気がつかずに、そのまま茹でられて死ぬという話です。実際は、逃げ出すでしょうが。緩やかな変化は気づかずに、致命的な状況に陥るという警告に使われます。

この30年間の日本経済の停滞は、これに当てはまりますが、温度が下がるので逆だと思います。徐々に経済力が落ちて、国際的には先進国と言えない状況にまでなりました。国内では給与は上がらず、非正規が増え、貧しい国になりました。しかし、徐々に変化した、というか変化しないうちに世界は成長していたので、危機感を持ちませんでした。

この状況は水温が上がったのではなく、暖かいと思って浸かっていたお風呂が、徐々に冷めて冷水になったと言った方がよいでしょう。どこかで風呂から出なければならなかった、そして追い焚きをしなければならなかったのですが、外も寒いので「もうしばらく浸かっていよう」と考えたのです。「冷めた風呂」とでも呼びましょうか。
「ゆでガエル」という表現に対比するなら、どんどん冷たくなって、ついには凍ってしまう「冷凍ガエル」でしょうか。

と書いたら、肝冷斎が、「まあまだいいか」という言葉を使っていました。
そうですね。気づかないうちに危機になる場合と、気づいていても対策を先送りする場合とがあります。もう一つ、間違った対策を打ち続ける場合もあります。この30年間の日本は、二番目と三番目だったようです。

内包と外延、行政と行政学について

2026年1月14日   岡本全勝

連載「公共を創る」第244回で、これからの地方自治体の在り方を考える際には、役所そのものを対象としているだけでは不十分で、地域の状態とその中での役所の役割を対象としなければならないと主張しました。その違いを「内包と外延」と表現しました。この言葉は数学や哲学で使われるですが、私は「内容を深掘りすること」と「周囲を見渡して置かれた立場を考えること」として使っています。これについては、「内包と外延、ものの分析」「その2」として書いたことがあります。今回は、行政を見る際に使ったのです。

役所の仕事を効率化することは、内容を深掘りすることです。それはそれで重要ですが、効率化の末に住民の期待に応えていないのなら、それは目的をはき違えています。置かれた立場、役所の役割を考慮しなければなりません。
公務員も学者も、その点を十分認識していなかったのではないでしょうか。行政学で行政機構を詳しく分析することは必要ですが、役所に何が求められているのか、外部の要素と主体(政治、社会、住民、民間組織など)との関係や、対応しなければならない課題を抜きに行政機構を分析しているだけでは、住民の期待に応えられません。教科書では、個別分野の政策を扱うものもありますが、このような視点ではまだ十分とは思えないのです。それは、政治学にも言えることです。

なぜ、今になってそれが問題になるのかは、第243回で述べました。地域社会が大きく変化し、役所に求められることが変わったからです。
日本が発展していた時期には、役所は増大する人口と生活水準の向上にあわせて、行政サービスを提供し、その質量の拡大をしていれば、住民の期待に応えることができました。ところが高齢化と人口減少が進むと、雇用の場がなくなり、各種のサービスが提供されなくなって、暮らしにくい地域が出てきたのです。そこでは、市町村役場が良い行政サービスを提供しているつもりでも、人びとは便利に暮らしていくことができません。ここに、外延を考える必要性が出てくるのです。

「外延を考える」といっても、外部の環境や外部主体との関係を分析するだけではありません。行政や政治が、何と「戦う」のかです。行政も政治も、社会の問題を解決し、住みやすい国や地域を作ることが役割です。その視点がない学問や分析は物足りないのです。「実用の学と説明の学」「文系の発想、理系の発想

大学で行政学を学んで以来、実務の場で行政学を考えてきました。若いときは、従事した地方交付税と地方財政を通じて、日本の行政を分析していました。本も書きました。しかしある段階で、これ以上深掘りしても、効果・意義は少ないのではないかと悩んでいました。その回答が、これです。

大所高所から

2025年11月18日   岡本全勝

報道機関から、取材を受けたり意見を求められたりすることがあります。ときには、私の専門外のことや最近の動きに詳しくないこともあります。
「それは、私の専門外や」とお断りするのですが、「いえ、専門的な話は担当者から聞くので、大所高所からの意見が欲しいんです」と言われます。

なるほど。我が身を振り返っても、担当している仕事については詳しくなるのですが、それを外の人が見たらどう見えるかを忘れるときがあります。外部の視点の方が、問題点などを見つけることもあります。岡目八目とも言います。
「明るい公務員講座」では、目の前のことに集中せず、もっと広い視野で考えましょうということを、蟻の目と鷹の目と表現しました。あるいは、岡本全勝Aの後ろに、岡本全勝Bを置いて考えましょうとも。『明るい公務員講座』の表紙の帯は、それを絵にしてもらいました。

もっとも、広い視野とか大所高所からといっても、そう簡単に全体を読むことができるわけではありません。その分野にある程度精通していなければなりませんし、それを少し離れた場所から見るという能力も必要です。どうしたら、それを身につけることができるか。
そのためには、さまざまな分野をそれなりに知っている必要があります。いろんな経験を積むことと、本を読むこと、新聞を読むこと、様々な人の意見を聞くこと、そして物事を客観的に見る訓練をすることが必要なのでしょうね。

私が「違った視点から見る」ために心がけているのは、次の2つです。
1 時間軸。過去や未来と比べてみる
2 横軸。違った立場、諸外国から見てみる

見えないものを見えるようにする

2025年10月28日   岡本全勝

10月24日の朝日新聞夕刊に「女性たちの力、「気づいて」 50年前の「女性の休日」、映画化した監督」が載っていました。印象的なのが「目に見えないものが見えるようになった」という表現です。

・・・世界経済フォーラムが公表するジェンダーギャップ指数で16回連続世界1位のアイスランド。男女平等への歩みが始まるきっかけとなった1975年の「女性の休日」から、24日で50年になる。この日を描いたドキュメンタリー映画を制作した米国人のパメラ・ホーガン監督は、「女性たちが連帯すれば、想像もできないことが成し遂げられる」と語り、日本の女性たちに対し、「社会の中で自分が持つ力に気づいてほしい」とエールを送る。

「女性の休日」とは、75年10月24日、アイスランドで女性の90%が一斉に仕事や家事を「ストライキ」した運動を指す。「女性がいなければ社会は動かない」ことを可視化させ、男女平等を訴えるためだった。
この日、首都レイキャビクなど各地で集会が開かれ、2万5千人以上が参加したとされる。アイスランドではこの出来事がきっかけとなって女性の社会進出が進み、5年後の80年には世界で初めて民主的な選挙による女性大統領が誕生した・・・

・・・50年前のアイスランドはジェンダー平等の先進国ではなかった。たった一日がなぜこれほど大きなインパクトを与えたのか。
ホーガン監督はある女性から「あの日、目に見えないものが見えるようになった」と言われたという。「これがどれほど深い意味を持つか考えてみてください。女性の仕事の多くは目に見えないもの。女性が当たり前のように行っていたことが突然、その国の機能にとって非常に重要だと理解されるようになったのです」・・・

今まで当たり前だと思っていた事実が、違う観点で見るとおかしいことに見えます。実態は変わっていないのに。
この「女性の休日」の場合も、そうでしょう。ただし、社会の既成勢力や常識が、「これはおかしい」と受け入れる素地も必要です。日本では、「夫は働きに出て、妻が家庭を守る」という常識が長く支配的でした。片働き家族と共働き家族の数が逆転したのは1990年代半ばでした。しかし、その後も、保育園が不足したり、夫が家事に参加しないことから、女性が働きに出るには大きな障害がありました。
公共交通機関のバリアフリーも、同じです。乳母車や車椅子での移動がどれだけ不便だったか。見えるようになると、これまでおかしさが見えてきて、改善が進みます。
その延長でいうと、報道機関や研究者の役割は、これまで見えていなかった事実を見えるようにすることでもあります。

変化によって形と関係はつくられる

2025年10月15日   岡本全勝

生物も生態系も、神様が設計されたのではなく、変化の中でできあがったもののようです。
私たちは、今の生物と生態系を見て学ぶので、それが最初からあったものだと思ってしまいます。しかし、そうではありません。単細胞生物から複雑なものへと進化しました。その過程で、生き残りをかけた競争があって、それぞれの生物の形ができ、その棲み分けで生態系ができました(エドワード.O.ウィルソン著『生命の多様性』(1995年、岩波書店)を読んで生態系・生物多様性を知ったときは目からうろこでした)。この本も、本棚から出てきました。

物は単独で進化するのではなく、周囲の環境、他の生物との競争の中で進化を遂げてきました。他の動物との競争がなければ、チーターの足は速くならず、キリンの首は伸びなかったでしょう。
そして、現状でひとまず安定していますが、競争と変化は続いています。仮の安定と言えばよいのでしょうか。人とウイルスとの戦いは、新型コロナ感染症で体験したばかりです。

人間と社会も、同様です。人は社会環境の中で育ち、人が社会の変化を作ります。やっかいなのは、生物や自然の変化に比べ、社会の変化が激しいことです。狩猟採集生活ではほぼ自然環境の一員として、自然の原理の中で生きていたのでしょうが。農耕生活に入って集団による競争が始まり、近代になって「進歩」が通念になってしまいました。
科学技術や経済において、終わりのない競争の中に放り込まれ、私たちは止まることを許されないのです。親と同じ人生を送ることができません。それどころか、大人になったときには、子どもの時にはなかった機械や環境に置かれます。それを学ばないと、置いて行かれます。考えてみれば、しんどい話です。