肝冷斎日誌、6月15日は「夜尽殺之(「牛氏紀聞」)」でした。
・・・唐の時代のことでございます。
「日本国使至海州、凡五百人、載国信、有十船、珍貨直数百万」
(日本国からの使者が江蘇の海州に到達した。一行はおよそ五百人、国家の公式の手紙を載せており、十隻の船団であった。持ってきた珍奇は貨物は、数百万金に当たると思われた)
時の海州知事は湖北・江夏の李邕(り・よう)、文人としても名高い人でした。李邕はその貨物を確認すると、日本国使を宿舎に収容してその出入りを監視した上で、
「夜中、尽取所載而沈其船」
(夜中に、すべての貨物を盗んだ上で、使者が乗ってきた船をすべて沈めてしまった)
そうして、
「既明、諷所管人白云、昨夜海潮大至、日本国船尽漂失、不知所在。於是以其事奏之」
(朝になってから、港を掌る役人を教唆して「昨晩、高潮が起こりまして、だと思いますが、日本国の船はすべてどこかに流れ去り、発見できておりません」と報告させた。そうしておいて、「そういう報告がありました」と中央官庁に報告したのである)・・・
ひどい話です。でも、肝冷斎に確認したところ、次のように教えてくれました。
・・・この話は、おそらくガセです。天宝年間の日本からの派遣は一回(もう一回計画がありますがこれは日本国内で中止)、752年のは有名な藤原清河大使で、玄宗皇帝の前で新羅使と席次を争ったときです。帰りは清河・安倍仲麻呂の船は安南漂着、二番船が鑑真乗り組みで薩摩坊津、そのほか紀州に行ったり対馬に行ったりしてます。いずれにしろこのころの遣唐船は四隻なので、十隻は無いです・・・
でも、このような話が書かれるのは、何か「事案」があったと思うのですが。