カテゴリーアーカイブ:社会

匿名投稿の危なさ

2025年3月1日   岡本全勝

匿名の発信が、あふれています。すべてとは言いませんが、無責任、読むにたえないものも多いです。私はソーシャルメディア(SNS)を使いません。
アマゾンで本を買うときに「評価」の欄を見ることがあります。低い評価(星が一つとか)は気になるので、見てしまいます。正当な意見ではなく、感情にまかせたような罵詈雑言もあります。「実名ならこんなことは書かないよな」と思います。

私のホームページは、このように実名です。発言には責任を持たなければならないと考えているからです。
それに対し、「みんなが、あなたのように強くはないのです」と言う人もいます。いえ、実名なら言えないような内容は、書かなければよいのです。そのような内容なら、知人と喫茶店か飲み屋で他人に聞かれないようにして、思いっきりしゃべってください。
読んだ相手がどのような気持ちになるか。それを考えない発言は、危ないです。批判をするなとは言いません。するにも、礼儀があるということです。あなたが逆の立場になった場合を考えてください。

2月14日の読売新聞に「SNS投稿 実名?匿名?」が載っていました。
・・・SNSは情報の発信・収集の手段として欠かせないツールとなっています。実名でも匿名でも利用できますが、匿名には「言いたいことが言える」といった利点がある一方、「実名にして発言に責任を持つべきだ」との声も上がります。あなたはどう考えますか?・・・
双方の言い分は、記事を読んでください。

日本独自のメンタルクリニック

2025年2月27日   岡本全勝

東京大学出版会の宣伝誌『UP』2月号に、下山晴彦・東大名誉教授の「”変なタイトル”の本の出版と、その背景―「心理職」国家資格化の顛末」が載っています。心理職が、相応の評価と待遇を受けていないことを紹介しておられます。

・・・皆様は、1990年代以降、都市部を中心に「メンタルクリニック」(精神科や心療内科)が急増していることにお気づきだろうか。「メンタルクリニック」は和製英語であり、精神科診療所としては世界でも類を見ない形態の、日本独特の医療機関である。心身の不調から日常的な悩みまで「メンタル」を巡るさまざまな問題が持ち込まれ、診断や治療がなされ、患者はメンタルクリニックへの接近と離反を繰り返す。
米国では、心の悩みの相談に行く専門機関は、通常、専門の「サイコロジスト」である心理職のオフィスである。それに対して日本では、「生きづらさ」を抱えた人びとが、コンビニのように街角にある「メンタルクリニック」、つまり医療機関に吸い寄せられていく。そのような人びとの中には、薬物療法が必要でない「悩みごと」を持った人たちもいる。そのような人にも診断名がつき、「患者」となり、薬物療法がされることもある。「メンタルクリニック」に勤務する心理職は、”医師の指示の下で”そのような「患者」を担当になることが多い。

全てがそうというわけではないが、多くの「メンタルクリニック」では、「生きづらさ」や「悩みごと」を病気(疾患)として治療する「医療化」が起きている。これは、日々の生活の中で生じる苦悩や困り事といった個人的問題に対して誰が相談に乗るのか、つまりどのような職業が管轄するかといういわば"管轄権”の問題と関わっている。
19世紀半ばまでは聖職者が”管轄権”を有していたが、近代化とともに相談による需要が高まったことで聖職者に代わる職業が求められることなった。米国などの欧米諸国では、心理的苦悩の相談を担当する管轄権を有しているのが心理職である。それに対して日本ではそれが「メンタルクリニック」、つまり医療になっているということである。日本では、他国とことなり、苦悩についての相談までもが「医療職」が管轄権を持つようになっている・・・

ペットボトルキャップ運動

2025年2月14日   岡本全勝

ある事業所で聞いた話です。
自動販売機を設置してあるのですが、利用者が飲み残しをペットボトル回収箱に入れてしまうことがあります。業者が回収する際に、液体が飛び散り周囲のものが汚れる被害が出るそうです。
解決策として、キャップを外してペットボトルを回収箱に入れてもらう方法を考えました。ペットボトル回収箱のほかに、キャップ回収箱を置くのです。
そして、認定NPO法人「世界の子どもにワクチンを日本委員会」の支援活動『ペットボトルキャップ運動』へ参加することにしたそうです。

利用者の協力が得られれば、効果的な方法ですね。うまいことを考える人がいるものです。

佐伯啓思先生「SNSが崩した近代社会の大原則」

2025年1月30日   岡本全勝

2024年12月25日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「SNSが壊したもの」から。いつもながら鋭い分析です。原文をお読みください。

・・・21世紀は情報社会であり、それを支えるものはデジタル技術である。この20~30年におよぶデジタル革命は、まちがいなくわれわれの生活を大きく変えてしまった。とりわけSNSが社会に与える影響は途方もなく大きく、様々な問題を生み出している・・・
(トランプ現象などを取り上げたあと)
・・・欧米においても日本においても、「既存のマスメディア」は、基本的に近代社会の「リベラルな価値」を掲げ、報道はあくまで「客観的な事実」に基づくという建前をとってきた。そして「リベラルな価値」と「客観的な事実」こそが欧米や日本のような民主主義社会の前提であった。この前提のもとではじめて個人の判断と議論にもとづく「公共的空間」が生まれる。これが近代社会の筋書きであった。
SNSのもつ革新性と脅威は、まさにその前提をすっかり崩してしまった点にある。それは、「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。

一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。その多くは、社会に対する憤懣、他者へのゆがんだ誹謗中傷、真偽など問わない情報の書き込み、炎上目当ての投稿などがはけ口になっている。SNSは万人に公開されているという意味で高度な「公共的空間」を構成しているにもかかわらず、そもそも「公共性」が成立する前提を最初から破壊しているのである。
今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。SNS情報の多くは、当初よりその真偽や客観性など問題としていないのである。「効果」だけが大事なのだ。これでは少なくとも民主的な政治がうまく機能するはずがないであろう・・・

・・・通常の財やサービスについては消費者は対価を支払う。それが市場の原則である。しかしSNSのような情報取引においては、消費者(使用者)は対価を支払わない。「いつでも、どこでも、誰とでもつながる無料のサービス」という奇妙なものが市場経済の中枢で無限に自己増殖してゆくのだ。
一方、プラットフォームの製作者や管理者は、大きなコストを必要とせずに広告収入で労せずして世界の支配者となってゆく。プラットフォームを使用するインフルエンサーはあちこちに自分の領地をもつ小ボスになる。そしてそれと連動するかのように、「既存のメディア」は力を失い、既存の民主政治は機能不全に陥ってゆく。
これは、高度な公共性をもつはずの情報・知識や通信ネットワークという「公共財(万人のインフラストラクチャー)」を、公的部門の管理にではなく、私的な市場競争に委ねた結果であった。

何かが間違っていたのだろうか。いやそうではあるまい。それはわれわれが、近代社会をとことん推し進めようとした結果ではなかろうか。
なぜなら、近代社会は、なんといっても個人の自由と幸福の追求に絶対的な価値を認めてきたからである。個人の活動の障害となる、既存の権力や伝統的権威、集団の規律、国境のような恣意的な線引きにはあくまで抵抗してきた。そしてそれが行きついた先が、グローバリズムであり情報革命である。ここでは個人の自由は最大限発揮される。
情報化にせよSNSにせよ、もとは権威主義的な政府に対抗する左翼リベラル派の戦略であった。しかし、皮肉なことに、情報ネットワークで世界を結ぶという計画を打ち出した民主党のクリントン大統領の情報革命が、その30年後には、トランプ氏の大統領返り咲きをもたらして民主党を窮地に追い込んだのである。
SNSのような「何でも表現できる自由なメディア」を称揚してきたのは、近代社会の「リベラルな価値」の信奉者である。とすれば、SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならないであろう・・・