カテゴリーアーカイブ:ものの見方

科学技術の形態、学問の分類

2025年10月13日   岡本全勝

9月20日の日経新聞「リーダーの本棚」は、石川正俊・東京理科大学長の「「学問とは」修め産学連携論」でした。次のような話が書かれています。モードとは様式や形態と訳すとよいでしょうか。
・・・科学技術にはいくつかのモードがある。あるテーマをどんどん掘り下げ心理を解明するのが「モード1」。社会が抱える課題を解きながら社会との関係の中で科学技術の発展を見るのが「モード2」だそうです。私流に解釈するなら、科学者としてわかったという喜びがモード1、できて使ってもらうという喜びがモード2です・・・

出典は、マイケル・ギボンズ著『現代社会と知の創造 モード論とは何か』(1997年、丸善ライブラリ)です。専門家の世界で完結しているのが、モード1。外部である社会と関係を持つのが、モード2です。

この観点からは、社会学において、現実問題と取り組む学問を「実用の学」とするなら、分析だけにとどまる学問を「説明の学」と言ってはどうかと、「実用の学と説明の学」に書いたことがあります。
よく似た切り口からは「過去を見る学、未来を見る学」という分類もあります。
明治以来、日本で成り立った「輸入の学問」=海外の学問を日本に紹介することは、学問の分類には入らないのでしょうね。

iPS細胞が問う生命倫理

2025年9月12日   岡本全勝

8月31日の日経新聞、山中伸弥・京都大学教授の「iPS細胞の発見、恐れを抱いた」から。
・・・体のあらゆる組織や臓器に育つiPS細胞の医療応用が近づいてきた。不治の病を治す光明となるだけでなく、将来は老化の抑制や同性カップルの子どもを作ることさえ可能になるかもしれない。「生」を操る研究はどこまで許されるのか。iPS細胞を約20年前に発見し、研究を主導してきた京都大学の山中伸弥教授に聞いた・・・

・・・iPS細胞から作った精子と卵子を受精させ、生命のもとになる受精卵を作製できる。老化を抑制する研究も世界で進んでいる。生命倫理上の課題が浮上してきた。
――iPS細胞から受精卵を作れば、人工的に生命を誕生させられる。マウスではすでに実現し、いずれヒトでもできるようになる。命を操作するような行為は倫理的に許されるのか。
「本当に難しい問題だ。そもそもiPS細胞を作ろうと思ったのは、それまで研究に使っていた万能細胞の倫理的な課題を解決するためだった。万能細胞の胚性幹細胞(ES細胞)は、受精卵から作られていた。皮膚の細胞などから作れるiPS細胞ができた瞬間は、倫理的な課題を克服できたと思った。しかし、数日もたたないうちにちょっと待てよと思った」
「よく考えたら皮膚とか血液の細胞から理論的には精子も作れるし、卵子も作れる。1つの倫理的課題を解決するために一生懸命研究してきて、解決できたと思ったら、より大きな倫理的課題を作ってしまったと思って愕然とした」

――国はヒトのiPS細胞から受精卵を作ることを特定の研究に限り容認するという方針を7月に決定した。研究は進めるべきなのか。
「研究者だけで決めていい問題ではない。マウスの肝臓の細胞からiPS細胞を作り、新しいマウスを誕生させたことがある。そのマウスを見たときに、ものすごく恐れに似た感覚を持った。半年前まで肝臓の細胞だったネズミが今、目の前で走り回っている。こんなことをしていいのかと思った。研究者がそうした感覚を持ち続けるというのはとても重要なことだと思う」
「新しい科学技術に対して私は常にどこまで許されるのかを自問している。しかし、それは新しい技術を拒絶するということではない。技術によって救われる人々が多くいるからだ。たとえば、将来、iPS細胞によって本人由来の精子を作れるようになれば、その選択を望むカップルも少なくないだろう。ただし、ヒトへの応用に先立ち、動物で長期にわたり安全性を検証する必要がある。対象をどこまで広げるべきかという倫理的議論も不可欠だ。科学は常に諸刃の剣であり、人類に福音をもたらし得る一方で、惨禍を招く可能性もある」・・・

略歴の表記

2025年7月21日   岡本全勝

皆さんは、略歴を書くときに、古いものから書きますか、新しいものから書きますか。
時系列なら、古いものから書きます。卒業からの職歴とかです。しかし、見る人からすると、昔のことより、最近のことを知りたいですよね。特に長々と書いてあると、最後(最近)にたどり着くまでが、大変です。

気になって見ていると、世間では、両方が併存しているようです。使用目的によって使い分けるのでしょうか。
私の略歴も、古い方から書いているのですが。講演会などで略歴を求められた場合は、ごくごく簡単なものにしています。

佐伯啓思さんが見る戦後80年 「ごっこの世界」は終わらない

2025年7月12日   岡本全勝

6月27日の朝日新聞、「佐伯啓思さんが見る戦後80年 「ごっこの世界」は終わらない」から。断片的に紹介しますが、意味が取りにくいので、原文をお読みください。

・・・この8月15日で戦後80年を迎える。それにしても、いつまで「戦後○○年」といい続けるのだろうかとも思うが、理由は簡単で、いまだにあの大戦の意味づけが確定できないからであろう。
戦争の意味づけができなければ、戦後という時代を見る確かな尺度も存在しない。戦争の意味づけとは、いいかえれば歴史観であるが、それなりの歴史観がなければ、「戦後」の歴史解釈もまた不確定なままであろう。
にもかかわらず、戦後の日本は、冷戦下での米国への追従によって、世界史の中でもまれに見る平和と経済発展を遂げた。戦後の最大の課題である、生存の確保と生活の安定、つまり平和の維持、およびその延長上にある経済的な豊かさはほぼ達成した。そのためには「過労死」などという言葉が英語になるほど、日本人はよく働いた。自民党政権が言い続けてきた「平和と繁栄」はおおよそ実現したといってよい。
だがそれで何かをなしとげたという自信や確信があるかといえば、どうも心もとない・・・

・・・少し象徴的にいえば、私は、ある意味で、1970年に「戦後」はひとまずの区切りをもっていたと思う。現在、大阪・関西万博が開催中であるが、70年には、日本で初の万国博が大阪で開催された。それは日本の戦後復興の完成であり、高度成長の頂点であった。同時に、この時代は、思想的には左翼全盛期であり、左翼学生運動の最終幕であり、また、かねて、沖縄返還がなければ戦後は終わらない、と宣言していた佐藤栄作首相のもとで返還が実現した時代である・・・
・・・それを江藤は「ごっこの世界」と呼んだ。たとえば、左翼系の学生運動はせいぜい「革命ごっこ」であり、自民党の唱える自主防衛もまた「自主独立ごっこ」でしかない。三島由紀夫の「楯(たて)の会」も「軍隊ごっこ」である。
そこには、厳しい現実に直面した身を切るような経験がない。皆が「ごっこ」に参加させられている。そしてその理由は、防衛にせよ、経済にせよ、戦後日本の基本構造は、あくまで米国によって作り出され、また支えられてきたからである。

米国は、日米安保体制によって日本の安全を維持するとともに、日本を冷戦下で共産主義に対する前線基地とみなした。また、日本の経済復興を支えると同時に、日本を米国の重要な市場ともみなした。つまり、戦後日本の「平和と繁栄」は米国の支えなしにはあり得ず、それはまた、日本が米国の国際的な戦略に編入されることを意味していた。
端的にいえば、戦後日本の「平和と繁栄」は、米国の「力」への追従と無関係ではない。その意味では、もっぱら「平和」を唱えた左翼護憲派も、他方で「繁栄」を主張した自民党的保守派も同じことである。両者による戦後日本の対立軸も、結局、米国の軍事力と世界戦略のもとでの「対立ごっこ」であった。
こういう世界では、本当の政治的課題は存在しない。なぜなら、真に重要な政治課題とは、自らの意思と手で「日本という国家」を造形するものであり、それこそが「公的なもの」だからである。しかし、「ごっこの世界」には真の「公的なもの」は存在しない。
江藤のいい方を借りれば、公的なものとは、自分たちの共通の価値の自覚にあり、それは、自らの生を共同体の運命として引き受けることである。だから「公的なもの」の方向指示器を米国に委ねれば、日本の政治から「公的なもの」という感覚が失われるのも当然であろう。その結果、日本の政治にあっては、もろもろの「わたくしごと」が政治空間を占拠した。

これが70年に江藤が述べたことである。ところで、彼は、論考の後半で、戦後日本の「ごっこの世界」はいまや終わりつつあるという。「ごっこの世界」とは、リアルな現実に直面しない一種の楽園であるが、この楽園の出し物はもう終わりを迎えつつある・・・

自由と平等が進むと社会が分裂した

2025年5月20日   岡本全勝

4月27日の読売新聞「あすへの考」は、佐伯啓思先生の「「米主導」没落 文明並立へ」でした。いつもながら鋭い分析です。ここでは一部しか紹介できないので、原文をお読みください。

・・・トランプ氏が高関税など独善的政策を強行しています。特異な米大統領の突拍子もない好き放題が耳目を引きますが、私は「トランプ現象」の由来に着目します。
第一は民主党のリベラル的政策の破綻。多様性確保や性的少数者擁護を「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)」を盾にして一つの正義にし、反感を買った。
第二は米国東部・中西部の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」が物語る、製造業の衰退と白人労働者らの困窮。
第三は司法・行政などの専門家に対する大衆の信頼の喪失。専門家は利己的で、公正な判断を怠っていると多くの国民が受けとめた。

私は次のように考えます。
個人の自由や権利の平等を尊ぶ自由主義は米国の中心的価値です。ただ多様性や少数者をめぐり自由と平等の徹底を図ったことで、かえって社会が分裂した。中心的価値が齟齬をきたしたのです。
ラストベルトは世界規模の経済競争の結果です。米国は鉄鋼など国際競争力を失った製造業を見捨て、情報技術(IT)と金融を最重視する政策転換を敢行した。米国型ITと金融は国際市場を制したが、一握りの人間が利益の大半を手にする事態となり、貧富格差が甚だしく拡大した。ITは虚偽情報の洪水を起こし、社会の秩序と道徳の混乱を招いた。
トランプ現象はグローバル化が破綻していることの反映です。トランプ氏が高関税で自由貿易を破壊していると見るのではなく、グローバル化で自由貿易がうまく機能しなくなる一方で、市場競争に代わる制度を見いだせない状況下で、トランプ氏は強引に事を運んでいると理解すべきでしょう。

グローバル化は東西冷戦でソ連に勝利した米国の自由主義・市場競争・IT・金融が一気に世界に拡大した現象です。米国には独特の歴史観があります。「アメリカニズム(米国型)」は普遍的であり、世界が米国型を採用し、同じ一つの方向に進めば国際秩序は安定し、人類は幸福になるという信念です。
実際には米国型は米国の風土の産物です。その担い手は「ワスプ(アングロサクソン系プロテスタント白人層)」でした。古代ギリシャ・ローマを範とするエリート主義です。この支配層が道徳観と責任感を共有し、国を動かした時代は自由・民主主義はうまく作用した。綻びが生じたのは1960年代。人種的少数派の黒人が公民権運動を通じて政治に参画するようになったことです。ワスプは米国型の人権の普遍性という建前に縛られて、自らの支配を手放す行為に至ったともいえます。以後、多文化主義が台頭し、国論の分裂・対立が常態化してゆきます。
一方、自由主義経済学の根本理念、「私益は公益なり」はグローバル化の経済には通用しなかった。企業が利益を求めて生産拠点を国外に移転すれば、国内の製造業は空洞化する。私益の追求は公益に直結しないのです・・・

・・・私見では「冷戦後のグローバル化」「100年に及ぶ米国型の普遍化」「250年に及ぶ欧州近代社会」という三つの試みが今、全て機能不全に陥っているのです・・・