研究開発投資の低迷が成長停滞の要因に

8月14日の日経新聞経済教室、岡崎哲二・明治学院大学教授の「積み残した技術立国の課題」から。

・・・一方、90年代以降、産業政策の性格は大きく変化した。これには3つの背景があった。
第1は米国からの外圧である。80年代、経常収支赤字と製造業衰退に直面した米国は日本の産業政策、特に個別産業を対象とする産業政策を批判した。89年に始まった日米構造協議・日米包括協議では米国は日本の経済システム全体に批判対象を拡大した。
第2は91年のバブル崩壊に始まる経済停滞の長期化である。長期停滞から脱却するため、米国からの批判とは別に、日本でも何らかの経済構造改革の必要性が認識されるようになった。
第3は日本経済の成長のステージに関する認識である。通産省の審議会による80年の「80年代の通産政策ビジョン」はすでに日本の1人当たり国民所得が欧州共同体(EC)諸国平均を超え、世界のフロンティアに到達したことを指摘した上で、今後は新しい成長パターンに進む必要があるとする認識を示した。

これら3つの事情を背景に90年代以降、通産省・経済産業省による産業政策は個別産業に対する政策介入から規制改革・経済構造改革に重点を移した。基本的な考え方は市場の機能を制約する規制を撤廃するとともに、市場を補完する制度を導入して市場の機能を高め、それにより新たなパターンの経済成長を軌道に乗せるというものであった。
注意すべきことは、市場機能重視の一方で、技術革新・イノベーションに対する政策的な支援の必要性は一貫して強調されてきた点である。「80年代の通産政策ビジョン」は新しい成長のスローガンとして「技術立国」を掲げ、研究開発費の増額と、研究開発費における政府負担割合の引き上げを提言した。
技術革新の促進はその後の「成長戦略」においても強調され、今日、経産省が掲げる「経済産業政策の新機軸」でも、人工知能(AI)等の新技術の発展を前提に、その1つの柱として取り上げられている。

しかし、現実はこれら一連の政策文書が目指した状態と異なっている。。図2は旧総理府・総務省が1950年代から調査してきた日本の研究開発費をGDPデフレーターで実質化した値(対数軸)、および研究開発費のうちの政府負担部分の比率を示す。
興味深いことに、研究開発費の動きは図1の1人当たり実質GDPの動きと軌を一にしている。すなわち経済成長が停滞した90年代以降、実質研究開発費もまた停滞的となった。さらに「80年代の通産政策ビジョン」が政府負担割合の引き上げを提言した直後の80年代前半、政府負担割合が逆に大きく低下し、その後も回復していない。

この「ビジョン」には、「追いつき型近代化の100年が終わり、80年代からは未踏の新しい段階が始まる」という印象的な一文がある。1956年版「経済白書」の「もはや『戦後』ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」という文章を想起させる。いずれも経済成長の新しいステージに足を踏み入れるにあたって、政策当局の決意を表明し、国民の自覚を促したものである。

1950年代以降の日本は見事に近代化の課題を達成した。一方、90年代以降の日本は認識されながらも30年以上にわたって達成されない課題を抱える。戦後80年を迎えた現在、日本はこの課題に本格的に取り組む必要がある・・・

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