利他の精神

5月29日の読売新聞言論欄、批評家の若松英輔さんの「利他の精神で生きる…温かい言葉 かけてみませんか」から。
・・・利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点があると思います。コロナ禍をきっかけに広がった面はありますが、日本では約1200年も前から使われている古い言葉なのです。
競争社会では、暗黙のうちに誰かを蹴落としていくことが日常になりかねません。人々の分断、格差も強まっている。そうした出口のない状況で待ち望まれていた言葉だったのではないでしょうか。
利他とは何かを考えるとき、鍵になるのは「つながり」と「弱さ」ではないかと思います。利他への目覚めには、様々なところに契機があります。コロナ禍だけでなく、大災害やロシアのウクライナ侵攻のような事態が起きると胸が痛む。それは、遠く離れた場所であっても見えない「つながり」を感じているからです・・・

・・・利他という言葉が、日本で用いられたのは9世紀初頭で、真言宗の開祖空海と天台宗を広めた最澄によってでした。2人は、ほぼ同時期に唐で学んだ平安仏教を代表する高僧です。最澄が唱えた「 忘己利他もうこりた 」は、自らの立場を忘れて困難や苦しみを引き受け、よきことを他者に手渡していきたい、という悲願です。「自利利他」を説く空海は、自分と他人のつながりを軸にすえ、「修行で自己を深めることと他者の救済は一つである」といいました・・・

・・・多くの人が利他の対義語と考えがちな「利己」の「利」は儒教的には、必ずしも肯定的な意味ばかりではありません。そこには利に走ることへの戒めがあり、利他を肯定的な意味で用いる仏教とは流れを異にします。
西洋では19世紀、フランスの哲学者オーギュスト・コントが「愛他主義」を唱えています。コントの哲学を端的にいえば、他者の立場に立って考え、生きることになります。その対義語として、自分の視点からのみ世の中を見るという意味で、利己主義(エゴイズム)という言葉も使われたのです。
しかし、コントのいうように他者の視座に立ち続けるのも、空海の「自利利他」や最澄の「忘己利他」を実践し続けるのも、普通の人には容易ではありません。むしろ私たちは、日頃意識していなかった他者とのつながりのなかに自己を見つめ直しつつ、一日のある瞬間など、どんなに短い間でも利他的になれればよいのではないでしょうか。利他的な人生ではなく、利他的な瞬間を生きるのです。
私はカトリック信者ですが、利他は宗派を超えた広義の宗教の原点といってよいものです。日本では自らを無宗教者と考える人が少なくありません。それでも、誰かのために「思わず祈った」ことがない人は、かえって少ないのではないでしょうか。特定の宗派に属することと宗教心を抱くということは同じではありません。だからこそ、平安時代に生まれた利他という言葉が、今も広く使われているのだと思います・・・