安藤宏『「私」をつくる 近代小説の試み』

安藤宏『「私」をつくる 近代小説の試み』(2015年、岩波新書)が、分かりやすかったです。宣伝には、次のように書いてあります。
「小説とは言葉で世界をつくること.その仕掛けの鍵は,「私」──.言文一致体の登場とともに生まれた日本近代小説の歴史は,作品世界に〈私〉をどうつくりだすかという,作家たちの試行錯誤の連続であった.漱石や太宰などの有名な作品を題材に,近代小説が生んだ日本語の世界を読み解く,まったく新しい小説入門」

文学評論というより、明治以降の小説を「私=書く主体と書かれる主体」を切り口にした、日本社会分析です。

第4章「「私」が「私」をつくるー回想の読み方、つくり方」72ページに、次のような文章があります。
・・・自分で自分の書いた日記を読み返し、そこに描かれている「私」の姿にとまどいや自己嫌悪を感じた経験はないだろうか。
描かれている「私」はたしかに自分であるはずなのだけれども、まるで別人のようにも感じられる。いっそ赤の他人ならよいのだろうが、一見異なる人物が実はほかならぬこの自分自身でもある、という二重感覚がわれわれをとまどわせ、羞恥や嫌悪の引き金になるのである。
いや、こうした言い方はあまり正確ではないかもしれない。たとえば写真で過去の自分の姿を見た時、われわれが感じるのは羞恥や嫌悪よりも、むしろ「こんな自分もいたのだ」というおかしみや懐かしさである。画像が外面的、形態的な客観性を保持しているのに対し、日記は言葉で書かれているために、本来外にさらされることのないはずの「内面」を露呈してしまっている。そのためにわれわれは勝手な「内面」づくりにいそしんでいた、まさにその行為にいたたまれなさを感じるのだ。
日記に登場する「私」は実にさまざまだ。友人と喧嘩したときの記述は自分に都合よく正当化されてしまっているかもしれないし、失恋したときの記述はこの世の悲劇を一身に背負ったヒーロー、あるいはヒロインになってしまっていることだろう。その時々の要請に従ってフィクショナルに仮構された「内面」が、今、読み返している「私」と同一であることを強いられるがゆえに、われわれはいわく言いがたい羞恥と嫌悪を感じてしまうのである・・・