3月4日の読売新聞「東日本大震災11年」は「火葬の備え 広域連携 「追いつかず土葬」教訓に」でした。
・・・震災から3週間ほどたった2011年4月上旬、宮城県石巻市の広場。火葬率がほぼ100%の日本で土葬が行われた。深さ2メートルの地中に 棺ひつぎ が並べられ、遺族らが泣きながら土をかぶせた。・・・
・・・同県では全国最多の9544人(関連死を除く)が亡くなった。県には震災翌日から「遺体安置所がいっぱいになった」「棺が足りない。用意してほしい」「ドライアイスがほしい」と、沿岸市町の要望が相次いだ。竹内直人・県警本部長(当時)は5日後の3月16日、県災害対策本部で「おびただしい数のご遺体があり、保管が日増しに問題になっている」と報告した。
県内の火葬場27か所のうち、7か所は被災するなどして稼働できなかった。残りの火葬能力は燃料不足もあって1日50体程度と通常の4分の1で、遺体の数に追いつかなかった。搬送する車やガソリンも足りなかった・・・
・・・仮埋葬の期間は2~5年としていたが、数週間後には「早く火葬してあげたい」という遺族が重機を持ち込み、自力で棺を掘り起こし始めた。他県に搬送できるめども立ったため、6市町は予定を大幅に繰り上げ、棺を掘り起こして火葬する「改葬」を11月までに行った。
改葬も過酷だった。自治体の依頼で作業した葬儀会社の一つ「清月記」(仙台市)の西村恒吉さん(48)は石巻市を担当した。掘り起こした棺の中の亡きがらは、遺族に最後の対面をしてもらえるような状態ではなかったという。市は遺族の立ち会いを断らざるを得なかった・・・