「新たな階級区分、イギリス」の続きです。
階級とは、客観的に存在するものではありません。人が、他人とは違うと意識することによって生まれます。そして、1人が意識するのではなく、その社会の多くの人が同様に意識することによって定着します。その「違い」が何か。見る人によって、階級の定義は異なります。
盛山和夫先生の『社会学とは何か』(2011年、ミネルヴァ書房)の、あとがきを思い出しました。先生は卒論で「階級とは何か」に取り組み、挫折します。「階級概念をどう定義すべきか」という問が解けなかったのです。その理由は、階級は客観的に実存しているのではなく、理念としてつくられたものだったからです。
日本では、明治維新で士農工商の身分が廃止されました。戦後改革で華族制度廃止、財閥解体、農地解放が行われ、身分区別がなくなり、また大金持ちがいなくなりました。さらに、経済成長を通じて平等化がすすみ、「一億総中流」と言われる、世界でも希な平等社会が実現しました。
かつてのような、生まれによる階級は薄くなりました。努力すれば、収入や社会的地位を得ることができます。
それでは、階級はなくなったのか。いえ、依然として存在します。上流、中流、下流という区分を、私たちも使います。さらに、近年では、格差拡大が大きな問題になっています。階級の元祖である経済的格差が、復活しているのです。
その元になるのは、
・高学歴を目指すことができるか(各人の努力の前に、家庭の事情で塾や有名進学校に行けるかどうか、出発点において差が出ています)
・職が正規化非正規か(労働者と経営者の対立より、こちらの差の方が実質的になりました)
などでしょう。