政治評論、マスコミの役割

粕谷一希著『粕谷一希随想集2 歴史散策』(2014年7月)p233「馬場恒吾と石橋湛山―政治批評について」は、次のような書き出しで始まります。
・・政治評論の世界は、政治家の世界ほど派手でも強烈でもない。あるいは文芸評論の世界ほど、青春の深部に刻印を残す世界でもない。それは人間が社会人として成熟してゆくとき、散文的な日常と共に、次第に眼を開かれてくる切実な世界なのである。したがって、その世界に生涯を捧げた本編の馬場恒吾とか石橋湛山といった名前にはあまり色気や魅力をもった響きはないかもしれない。けれども今その日本の状況を省みるとき、私にはある切実な渇望と共にその存在が甦ってくる。
―現代の日本には、こうした政治評論の原型が見失われてしまったのではないか。政治の混迷もはなはだしいが、それにもまして、そうした政治を批評し切る存在とか視点が、欠けてくることで、日本全体が盲飛行の状態に陥ってきてはいないか・・
これは1979年に発表された文章です。
日本の政治やについて、水準が低いとか、遅れているといった批判は、毎日のように聞かれます。しかし、批判をしているだけでは、改善はされません。
その批判の多くは、欧米(の一部)を基準にしたものであったり、単なる理想像からのものです。世の中、そんな簡単にできていないので、ある改革を実現しようとしたら、その道筋を考えなければなりません。改革には反対派が必ずいます。国民の支持をどう取り付けるか、党内の合意をどう付けるか、財源はどうするのかなどなど。「減税はします、福祉も充実します」ことが両立しないことは、高校生でもわかることです。
「国民の水準以上の政治家は生まれない」「国民の水準に合った政治しか成り立たない」という警句があります。
日本の政治や政治家を批判し、よりよいものを望むなら、現実の政治や、政党、政治家をけなしているだけではだめです。政策にあっては、代案を出したり、その実現への道筋を提案しなければなりません。政党や政治家については、どこが悪くて、どこが良いのかを指摘すべきでしょう。そして、育てなければなりません。
「マスコミの役割は権力を監視すること」「政府と対峙することだ」という主張があります。それは理解できますが、あれもダメ、これもダメと批判ばかりしていては、政治家も政党も成長しません。政策も実現しません。批判をするだけなら、楽なものですわ。
ここには、もう1つの要素があります。毎日の政治の動きや政治家の動きを追いかけていても、政治評論は成り立ちません。中長期的な視野から、政策と政党や政治家を追いかける必要があります。政策も政治家も取っ替え引っ替えしているようでは、アイドルと同じで使い捨てになります。
それは、マスコミの政治部記者の勤務実態とも関係しています。記者たちは、1年か2年で異動を繰り返します。ある政策を長く追いかけることは、あまりないようです。また、少し離れた位置から、日本政治を考えることも少ないようです。
政治評論の役割は、御厨貴著『馬場恒吾の面目』を紹介する際に言及したことがあります(2014年1月22日)。この本を読んだ時に思うところがありましたが、放っておいたら、粕谷さんの随想集第3巻が出版されました。