覇権国家イギリスを作った仕組み、3

覇権国家イギリスを作った仕組み、2」から続く。

3 では、どのようして、イギリスはフランスやドイツに勝っていくのか。
・・名誉革命すなわち反ルイ14世戦線の成立のあと、イギリスとフランスのあいだで、王位継承、海外領土、通商、そしてアメリカ独立、フランス革命、ナポレオン帝国をめぐる戦争が間歇的に続いた。中世の百年戦争にならって「第二次百年戦争」(1689-1815)と呼ぶ。
これがイギリス政治の第二の規定要因なのだが、その戦場は中世の百年戦争と違って、ヨーロッパ大陸や地中海からアメリカ、大西洋、南アジアに広がり、その余波は日本の長崎にまで及ぶ。地球上の要所で競い戦う英仏によって、世界近代史が画されることになる。
1698年から議会の承認があれば平時(戦間期)にも常備軍を維持できるようになった。長期にわたるグローバルな戦争を戦いぬくには、軍事力と外交力はもちろん、それを支える兵站、補給、動員、管理のレジームが要となる。その帰するところは、カネすなわち財政力であり、国富であり、また国民のコンセンサスである。
中世以来の関税と臨時税だけで長期の戦費をまかなうのは無理なので、議会は地租や窓税といった直接税を創設した。また1692年に初めて国債を発行し、94年にはその引受銀行としてイングランド銀行を設立した。今日の連合王国の中央銀行である。印紙や麦芽などの特定品目に課す消費税も行われた。その結果、ウィリアム三世期のイギリスは関税、直接税、消費税、そして国債に支えられる、近代的な財政国家となった。すべて議会の決定による。これをもってP・オブライエンとJ・ブルーアは、名誉革命後のイギリスに、絶対主義の官僚国家でも小さな政府の夜警国家でもなく、「財政軍事国家」が出現したという・・(p157)
・・たしかに18世の後半までイギリスの人口はフランスの半分にも満たず、陸軍はフランスが圧倒的であり、また服部春彦が明らかにしたとおり、カリブ(西インド)貿易においてフランスのパフォーマンスのほうが優っていた。だが、長い18世紀の第二次百年戦争は、兵站、財政、そして国民的コンセンサスといった難題を解決できる国に、究極の勝利をもたらすであろう。イギリスはすでに大陸諸国とは異なる国のかたちを描いていた・・(p159)
次回に続く