生命倫理をどう議論するか。政治と生命倫理

尾関章著『科学をいまどう語るかー啓蒙から批評へ』(新聞報道を自己検証する。4月26日)には、次のような指摘もあります。
遺伝子など医療や生殖の倫理をめぐる問題についてです(p109、p175)。日本に比べ、欧米では政治家のこの問題に関する感度が高いのです。それは政治家だけの意識でなく、有権者の関心を代弁しているのだろうということです。
アメリカでは、1970年代に連邦議会に置かれた技術評価局(OTA)が、遺伝子鑑定による証拠の問題について指摘しました。また、大統領選挙戦で、医療と生命倫理の問題が大きな争点になります。 フランスでは、1994年に生命倫理法を定めました。そのときのことが、紹介されています。「法案審議の際に、議員一人ひとりが自分の立場で討論した。発言も、主語は「我々」ではなく、「私」がほとんどだった」。
臓器移植の際には、提供者をどの時点で死と認めるか、特に脳死が問題になります。日本でも1990年代初めに、脳死臨調が作られました。これは政府の審議会の一つですが、審議会の答申で生と死の境目が決まるわけではありません。臓器移植法は、1997年に作られました。また、臓器移植の際に、「本人同意」をどう確認するかの問題もあります。これは、子どもについて大きな問題になりました。小さな子どもに臓器移植するには、子どもからの提供でないと、大人の大きな臓器では手術できない場合があります。これについては、2009年の法改正で家族の同意でできるようになりました。この法案の採決の状況を、覚えています。他の法律とは違った雰囲気でした。1つの案の可否でなく、4案が提案され採決されました。
この問題は、医者ではなく、政治に大きな議論を提起しています。先端医療や遺伝子解析は、どこまで利用してい良いか。人体を管理して良いのか。延命治療はどこまで行うべきか。人工中絶はどこまで認めるのか。出生前診断で胎児に大きな異常が発見されたらどうするか。本人が望むことなら、何をしても良いのか。それを、誰がどのように決めるかです。
これらは倫理の問題であって、安全や経済や公平といったこれまで政治や法律が扱ってきた社会問題と違った次元にあります。そして、個人個人の考えが異なり、宗教とも近いです。これまで学校では議論されず、また学問や行政とも「離れた世界」で扱われてきました。極端な言い方ですが、「命の大切さ」「個人の平等」という言葉以上の、踏み込んだ議論はされてこなかったのです。戦後日本においては、政教分離という原則で触らずに来たのですが、臓器移植や遺伝子治療で、避けて通れなくなったのです。
すると、これまで政府や国会で議論してこなかったテーマであり、マスコミでも議論してこなかった分野なので、それをどう扱ったら良いかという「作法」が必要になります。
政府内では、どの省が所管するのかという問題になります。医療は厚生労働省ですが、ここで取り上げているのは「生命倫理」です。また学問としては、何学部の範囲になるのでしょうか。個人の内面には立ち入らないというのが、近代民主主義国家の原則ですが、この問題は内面ではありません。憲法が想定していなかった状況、近代民主主義も想定していなかった問題かもしれません。