行政化する日本政治

東大出版会PR誌「UP」9月号に、前田健太郎・東大法学部准教授が、野口雅弘著『忖度と官僚制の政治学』の書評「行政化する日本政治」を書いておられます。

近年の日本の官僚制における「忖度」について、一般的には、首相の権力基盤が強化され「政治主導」あるいは「官邸主導」が実現したから、官僚たちはその意向を忖度して行動するようになったと言われていると指摘した後で。
・・・しかし、今回紹介する野口雅弘著『忖度と官僚制の政治学』(青土社、2018年)は、こうした説明とは全く異なる議論を展開している。本書によれば、現在の官僚制における「忖度」の問題は、政治主導に起因する現象ではない。むしろ、この現象は政治が「行政化」していることに由来する。つまり、忖度の広がりとは、政治家が官僚を従わせていることではなく、政治家が官僚のようになってしまっていることの現れだというのである・・・

・・・官僚の「忖度」が指摘されるようになった背景として、本書は1990年代以降の日本政治における「アカウンタビリティ」の広がりに注目する。この言葉は「説明責任」と訳され、政治家や官僚といった政治エリートが自らの行動を社会に対して説明する責任を意味する表現として用いられてきた・・・
・・・この過程(情報公開制度や新公共管理論の発展)において、本来は二種類に区別されていたアカウンタビリティの概念が混同されるようになったと本書は指摘する。第一は、官僚のアカウンタビリティである。これは、行政の執行手続きが公正・中立に行われ、そこに恣意性が含まれないことを意味する。第二は、政治家のアカウンタビリティである。これは、自らの立場の持つ党派性を明確にしたうえで、その立場に基づいて対抗勢力との論争を行うことを意味する。ウェーバーが『仕事としての政治』において展開した官僚と政治家の役割の区別に従えば、官僚は「怒りも興奮もなく」政治家の決定を実行し、政治家は対立する価値を巡る「闘争」を通じて意思決定を行うのである・・・

・・・この二つのアカウンタビリティのうち、1990年代以降の日本で主流となったのは、官僚のアカウンタビリティであった。すなわち、本来は野党との論争を主たる役割とするはずの政権与党の政治家たちが、政策決定を行う際、自らの党派性を前面に出すのではなく、むしろ自ら政策が他に選択肢のない、客観的で中立的なものだという、あたかも官僚のような論理を用いるようになった・・・
・・・このように論争の可能性を排除しようとする説明の仕方は、政治家の作法ではない。むしろ、それは政治が「行政化」していくことを意味する(243頁)。そして、政治から論争が排除されることが、「忖度」の広がりの背景となる。というのも、政策的な論戦が行われにくい環境の下では、政策を立案し、論争する能力に長けた官僚よりも、官邸の中枢の意向を先回りして読み、関係者の利害を調整する能力を持つ官僚の方が出世しやすいからである・・・
この項続く