5日の読売新聞「ポスト小泉を考える・地方分権」は、新藤宗幸教授と浅野史郎前知事でした。
「一部に、95年の地方分権推進法にならった法律を制定し、内閣府に諮問委員会を設けて取り組むべきとの意見がある。だが、次期政権に政治主導体制への熱意があるならば、10年も前の方式をとる必要はない。首相自らが長となり主要閣僚ならびに地方代表からなる改革会議を設置して、国庫補助負担金の廃止や国税の地方移譲、新たな中央・地方財政調整システムの改革に取り組むべきである」
「総裁選に出馬する3人の言葉を聞く限り、地方分権が、いつの間にか『地方間の格差縮小』に変わってしまったかのように見える・・」
このほか、いろいろな論点が指摘されています。(9月5日)
18日の日経新聞社説は、「06総裁選政策課題を問う。柔軟な発想で公教育の再生を図れ」でした。
「教育改革をめぐるもう一つの大きな論点は、国が責任を持つ部分と現場の裁量に任せる部分をどう切り分けるかである。
戦後、文科省は学習指導要領で教育内容を事細かに拘束し、教員養成も一元化してきた。この結果、教育界には画一主義がはびこり、地域や学校の創意工夫を阻害している。私たちはこうした認識から、指導要領の簡素化・大綱化などにより現場での競い合いを促すべきだと提唱してきた。どんな教育改革を進めるにせよ、分権の方向性は時代の要請であることを強調しておきたい・・・」。
長くなるので、原文をお読みください。(9月18日)
18日の毎日新聞「闘論」は、松沢成文神奈川県知事と、片山善博鳥取県知事の「地方から見た小泉改革」でした。松沢知事は、国と闘う姿勢促した、既得権益破壊も意義という主張で、片山知事は、理念先行のまがい物、地域格差の拡大招くという主張でした。(9月19日)
19日の日経新聞社説は、「16年総裁選政策課題を問う」「道州制の導入含め、地方分権に本腰を」でした。原文をお読みください。(9月19日)
(分権の進捗と交付税の機能)
地方分権が進むと、交付税(財源調整機能や財源保障機能)がなくなるかのような議論をする人がいます。ちょっと待ってください。地方団体の財政の自由度を上げるために、財源調整や財源保障をゆるめることは正しいです。しかし、分権が進んでも、この機能はなくならないのです。それは、次のようなことです。
現代の福祉国家にあっては、教育、福祉、衛生、安全などの分野において、国は国民に対し、等しくサービスを提供する義務を負いました。それを国が直接執行するのなら、交付税制度は要りません。国立学校には、交付税措置は要らないのです。しかし、分権によって、多くの事務を地方団体を通じて行うことになります。
各地方団体が、その経費を自前でまかなえれば、問題はありません。税源移譲や地方税の増税で、不交付団体が増えます。交付税に頼らない団体が多くなります。しかし、すべての団体が地方税で運営できるようになることは、今の日本の地域経済の状況では、無理でしょう。
そのような経費が増加する一方で、経済は、ますます偏在的に発展します。すると、責任者である国は、地方団体に対し、それらの事務にかかる経費を、財源保障する必要があります。このように、福祉国家において地方分権が進展すると、交付税の必要性はなくならないのです。
もちろん、連邦制になって、福祉の基準も税の基本も各州が決めるようになると、連邦と州との財政調整は要りません。でも、州政府と市町村との間の、財政調整が必要です。(9月21日)
先日に引き続き、分権と財政についての考察です。
(国の役割再考-ナショナル・ミニマムの内容)
国庫補助金の役割を見直していくと、地方団体が行う事務に対する国の関与の問題に行き着きます。国が関心を持ち、責任を持つ部分が、「ナショナル・ミニマム」です。この言葉も、あいまいです。しかし、事務を分類する考え方としては有用だと思います。
ところで、これまでは、どの事務がナショナル・ミニマムで、どの事務はそうでないか、対象事務の切り分けが、議論の中心でした。わたしは、これからは、ナショナル・ミニマムの内容を議論すべきだと思います。すなわち、ある事務がナショナル・ミニマムだとして、国家が国民に対して何について責任を持つかということです。
(何を保障するか)
義務教育で、考えてみましょう。これは、ナショナル・ミニマムでしょう。では、国家が保障すべき義務教育とは何でしょうか。これまでは、教職員の数と給与、校舎の建設でした。しかし、これが「国家が保障する教育」でしょうか。私は、違うと思います。国民が期待するナショナル・ミニマムとしての教育は、教育を受ける機会均等とその内容でしょう。教職員の給与は、機会均等のための一つの手段でしかありません。
発展途上国であって学校がないとか教員がいないというなら、教員と施設を整えることが、国家に期待されるでしょう。しかし、それらを整えた場合、国家に期待されることは、教育の内容でしょう。かつては、教員と施設をそろえることが、ナショナル・ミニマムでした。しかし現在では、そうではないのです。国民が教育に期待しているのは、先生の給料をどう払うかでなく、どのような教育を子弟に授けてくれるかです。
ここには、ナショナル・ミニマムに関して、3つの間違いがあります。一つは、国家が保障すべきはお金でなく、教育内容であるということ。もう一つは、保障する相手は地方団体ではなく、生徒や保護者であること。そして最後に、予算という入力でなく、教育結果という結果で測る必要があるということです(これは「続・進む三位一体改革」に書きました)。
(行政の役割変化)
この議論の基底には、行政の役割変化があります。一つは、行政の目的が、金でできることからよりソフトなものになったこと。二つは、対象者が、業界でなく消費者になったこと。三つに、評価は、インプット(予算)でなくアウトカム(品質)で測るべきであるということです。(9月23日)
25日の日経新聞は、「安倍政権あす発足。地方分権どう描く」「具体論、所信表明を注視」を大きく書いていました。(9月25日)
3日の読売新聞「安倍新政権に望む」は、高橋はるみ北海道知事の「国と地方、役割分担に道筋を」でした。
地方交付税の改革で、安倍首相は定年退職者の活用など、地方の努力に応じて交付税の配分を積み増す考えを示しているがとの問に対して、
「地方交付税は、地域の活性化のために地方が自由に使っている財源だ。安倍首相は(配分の算定基準などで)いろいろアイデアがあるようだが、できる限り地方の裁量に任せてほしい。算定方式は客観的な指標を中心とし、国民誰でも理解できるものにするべきだ」
「国の歳出削減のため交付税の総額をいかに減らすかという議論がさかんに行われているが、『ちょっと待って』と言いたい。10年ほど前に景気対策と称して公共事業をたくさんやった時、国は地方にも借金するように求め『返済は交付税で面倒見る』と言った。それを受けた地方にも責任はあるが・・・」
「・・・ムダな補助金の事業をやめれば歳出削減の余地はまだまだある。地方は『国が補助してくれるのだからちょっとムダがあっても』と考えてしまう。国と地方は補助金のやりとりの過程でモラルハザードを起こしている。歳出削減が地方分権の目的ではないが、地方分権を進めれば歳出は削減できる」(10月3日)
5日の日経新聞経済教室「政治の統治改革考」は、新藤宗幸教授の「三位一体改革第二次を」「真の分権国家創造。霞ヶ関、高次の課題に特化」でした。
「1990年代初頭から、政官関係の見直しが、政治のアジェンダとされてきた。2001年1月の行政改革にもとづく内閣法4条改正による首相発議権の法制化、内閣府新設、内閣官房機能の強化などは、こうしたアジェンダに応えたものだ。とはいえ、割拠的な各省官僚機構の改革は手つかずのままである」
「問われているのは、官から民へなどのスローガンのもと政府事業の一部を民営化することではない・・・官のリストラと再チャレンジ社会の創造は、どちらも地方分権改革と表裏の関係にある・・・官僚機構の役割を高次の政策課題に関する政権の補佐・補助機能に純化し、内政事項の多くを自治体に移管する分権改革こそが、官のリストラを促進する」
「改革続行をいう政権は、こうした結果を総括した上で、第2期三位一体改革に着手すべきである・・だが、大規模な国庫補助負担金廃止は、機関委任事務制度の廃止以上に官僚機構の抵抗が伴う。それだけに安倍政権は、95年の地方分権推進委員会のような外部の学識者からなる諮問機関を設置し、その検討に委ねるのでなく、政権主導で立ち向かわねばなるまい」(10月5日)
同じく日経新聞「安倍政権、経済政策の課題」は「揺れる地方財政。カギは分権、壁は中央」でした。「がんばる地方応援プログラム・・・少子化対策などで一定の成果をあげた自治体に交付税を上乗せ配分する案が有力だ。交付税に一種の成果主義を採り入れる試みだが、手法次第では新型交付税で収入が減る自治体への穴埋めに使われる恐れがないわけではない。国による政策誘導の色が強まれば、交付税が第二の補助金と化し、地方の自由度がかえって低下する可能性もある」
「これまでの分権改革は中央省庁の抵抗で骨抜きになった歴史の繰り返し。小泉政権での国と地方の税財政改革(三位一体改革)も霞ヶ関との利害対立で中途半端に終わった。地方の悲鳴に揺れる地方財政改革だが、最大の壁は中央にあるのかもしれない」(10月5日)