松戸散歩2

松戸散歩」の続きです。
帰りに、駅前の高台にある、旧陸軍の工兵学校跡を見てきました。これも、訪ねたいと思っていました。亡き父が、訓練を受けたところなのです。

1921年生まれの父は、職業軍人ではなく、召集を受けた後、陸軍予備役将校となる幹部候補生試験に合格しました。戦時中で不足する将校を補充するため、士官学校卒の将校(職業軍人)以外に、このような選抜教育の仕組みがありました。そのような試験があることを知らずに入隊し、夜に便所の明かりで猛勉強をしたそうです。
「幹候試験は、奈良県内で数人しか受からない。高文試験(高等文官試験)より難しい」と語っていました。(その息子は体格も立派でなく、陸軍士官学校も廃止されていたので、高等文官試験の後継(国家公務員上級職試験)を受けました。)

しかも工兵という兵種で、松戸の工兵学校で教育を受けたのです。体格がよく、運動能力もよく(県内の陸上競技での入賞メダルもありました)、工業学校卒ということで、工兵に配属されたのでしょう。大阪高槻から東京赤羽、そして松戸で教育を受けました。
目の前にある江戸川で演習をして、橋を架ける訓練のほか、寒い季節に川に浸かって布を縫う訓練もあったそうです。要領のよい生徒は、事前に針に糸を通しておくのだそうです。手がかじかんで、針の穴に糸を通すどころではないとのことでした。

私が父と暮らしていた頃、高校生までですが、父が友人と酒を飲んでそんな話をするのを、横で聞いていました。戦争が終わってまだ20数年後のことです。いくつかの話を覚えているのですが、もっとしっかり聞いておくべきでした。
父が亡くなってから、ふと「松戸の工兵学校」を思い出し、インターネットで検索したらいろいろと載っていました。そこで、一度は訪ねたいと思っていたのです。父が元気なうちに、一緒に行くべきでした。

その後、父は准尉、少尉となり、中国旅順にあった船舶工兵の部隊に配属されました。大発(大発動艇)で敵前上陸する部隊です。海軍でなく、陸軍にあったのです。
そして、北は満洲ソ連国境、南はフィリピンからインドネシアへ。それらの経験は、一冊の本になるくらいです。それはまた別の機会に。