カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」第56回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第56回「日本は大転換期―成熟社会で浮き彫りになった労働の問題」が、発行されました。
成熟社会日本の問題、今回は労働について議論します。

日本にのみ特殊と言われている「メンバーシップ型雇用慣行」。これが、発展途上時代には効果を発揮しました。
ところが、何度か紹介したように、日本の労働者の勤労意欲は先進諸国でも低いのです。私は、その理由が、メンバーシップ型雇用慣行にあると考えています。
その他に、労働者の甘え、生産性の低さなども、その原因はここにあります。
これは、40年間サラリーマンをして、30年間管理職をした経験による結論です。

どうすれば、この問題を解決できるか。その答えは、管理職と従業員を区別すること、そして、管理職に管理職の仕事をさせることです。

参考「ジョブ型雇用、日本への導入」「テレワークで見えた日本型職場の弱点」「階統制組織と平等的組織

連載「公共を創る」執筆状況

連載「公共を創る 新たな行政の役割」、定例の執筆状況報告です。
前回書いたように、第3章1(2)その2を、編集長に提出したのが7月31日。それを紙面の形にしてもらい、10月16日分までできたので、一安心。ところが、この油断と、夏の暑さもあり、気がついたら8月下旬でした。

右筆に「執筆が進まないので、もう少し待ってくれ」と連絡したら、「それはスランプですよ。おしりに火がついたら、進むのでは」とのご託宣。その通りです。
「なんで、こんなことをしているのだろう」と自問しつつ、とはいえ、締めきりは待ってくれないので。
それから毎日、時間を見つけては、ああでもない、こうでもないと、書いては消すを繰り返しました。土日には早起きして集中して、ほぼ仕上げました。特に土曜日は雨で気温も低く、はかどりました。ただし、(2)その3を完成できないので、まずは「その3の1」を部分完成させました。
もう一度じっくり読み直し、右筆さんたちに手を入れてもらいます。

とはいえ、土日に執筆を頑張ると、疲れます。

連載「公共を創る」第55回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第55回「日本は大転換期―満足しても現れる問題」が、発行されました。
成熟社会日本の問題。前回までで、豊かさや自由といった憧れが実現すると、成長の低下、目標の分散、孤独、責任などを生んだことを指摘しました。
今回は、満足したことによる問題や、経済的豊かさを追求したことによる問題などを取り上げます。

世論調査では、多くの人が生活に満足し、9割が中流だと答えています。それは結構なことですが、「上」を目指すことなく、「中」で満足しているとも言えます。
また、満足したことで、現実を見ることがおろそかになったようです。社会全体としては豊かになったのですが、貧困に悩む人はいなくなっていません。それどころか、豊かさの陰で経済格差は広がっていました。
満足は、現実にある問題を覆い隠し、またさらなる挑戦を忘れさせるという副作用がありました。
そして、他人と同じことさえしておれば、うまく行くという、依存心をも広げました。
社会の課題に取り組まない、公共の問題に取り組まないという、社会参加意識と政治参加意識の低下も招きました。

連載「公共を創る」第54回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第54回「日本は大転換期―憧れを手に入れ現れた閉塞感」が、発行されました。
成熟社会日本の問題、前回は、手に入れた自由が重荷になることをお話ししました。今回は、自由になると「私は何者か」という悩みが出てくることを説明します。

伝統社会では、生まれた家で、あなたの人生が決まりました。学問、職業、結婚は、親を見ると想像できました。しかし、家や中間集団に縛られなくなると、どのような職業を選ぶか、どのような人生を送るかを考えなければなりません。自分は何者かを、考える時間ができ、考えなければならなくなりました。これも、しんどいことです。

さて、豊かで自由を手に入れた日本。昭和時代より、平成時代や令和時代の方がはるかによくなったのに、元気がありません。それは、憧れを手に入れたことによります。憧れを目指して努力する、そしてそれが徐々に実現することで、喜びが得られ、元気が出たのです。では、次の目標は何か。そこが難しいのです。

連載「公共を創る」第53回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第53回「日本は大転換期―自由の獲得で重みを増した自己責任」が、発行されました。成熟社会の問題、今号は、自由と孤独についてです。

経済発展によって、自由が実質的になりました。憲法で書かれただけでは、自由は獲得できません。豊かになることで、農地に縛られないこと、家業に縛られないことで、自由になれたのです。毎日の生活も、自分の人生も、自ら選ぶことができるようになりました。しかしそれは、自分で選ばなければならないということです。さらに、その結果も、自分で引き受けます。これは、つらいことです。
そして、みんながみんな自立できるわけではなく、また学校を出ただけでは、自立できません。そして、世間から期待されているだけの行動をしないと、失敗したときに「自己責任だ」と、突き放されます。自由は、責任も連れてきました。

自由はまた、孤独も連れてきました。イエや村、中間団体、宗教などの束縛から解放されると、人はつながりが薄くなり、孤立することになりました。それは、プライバシー意識を高め、さらに孤立を進めることになります。