6月28日の日経新聞に、「戦後80年 バブルと円」「「円高恐怖症」乗り越える」が載っていました。ついている図表とともに、わかりやすい解説になっています。原文をお読みください。
・・・日本経済の道のりは繰り返される「円高恐怖症」への対応に追われ続けた歴史でもある。円安を「国是」とする輸出立国の呪縛から逃れられないまま、今に至る。戦後80年、次の危機の芽が見え隠れしてきた。
1949年4月25日。ここが本当の「戦後の始まり」かもしれない。品目ごとに異なっていた円の公定レートが1ドル=360円で統一された日だ。
以来、360円の固定レートは50年の朝鮮戦争の特需を経て高度成長を強力に支えたが、その後の苦難の源流ともなった。
終止符を打ったのが71年8月のニクソン・ショックだ。ベトナム戦争で疲弊した米国が一方的にドルと金の交換停止を通告し、急激な円高圧力がかかった。
ここで日本は円高恐怖症を発症する。日銀百年史によれば、「国民各層のほとんどが円切り上げアレルギーとでも称すべき状況」に陥った。同年12月のスミソニアン合意で固定レートを308円に切り上げたが、円高の奔流は止まらない。日本は73年2月、やむなく変動相場制へ移行する。
円高パニックは高インフレの種をばらまいた。政府も日銀も財政拡張と金融緩和に走り、そして狂乱物価へ。73年の第1次石油危機はきっかけにすぎない。
第2次石油危機に際し、日銀は教訓を生かして積極的な利上げに動く。労使は「賃上げよりも雇用維持」に転じ、企業は省エネ経営で競争力を高めた。だが危機を克服する日本経済の強さが新たな危機につながる。米国は経済停滞と物価高が併存するスタグフレーションが長引き、対外収支の不均衡が蓄積していった。
2度目の円高恐怖症は85年のプラザ合意後だ。米国は高金利政策のあおりのドル高の重荷や対外収支の悪化に耐えきれず、日米欧はドル高是正で足並みをそろえた。合意前、日銀は経済大国の自負から日本の課題を「わが国自身が最も恩恵を受けている自由貿易体制の崩壊を防ぐことにある」(85年5月の調査月報)と記したが、その余裕はすぐに崩れる。
円高不況に入り、日銀は86〜87年に5度にわたって金融緩和に動く。日米欧は87年のルーブル合意でドル安阻止に転じるも、円高パニックは消えなかった。
当時の宮沢喜一蔵相は「私の頭の中は急速な円高を何とか食い止めたいということでいっぱいだった」(私の履歴書、2006年)と明かした。日銀総裁だった澄田智氏も1984〜89年の任期を「為替に始まり、為替に終わった」(2000年のインタビュー)と振り返った。
狂乱物価の再来阻止を誓う日銀だが長期の金融緩和は代わりに狂乱株価と狂乱地価を生んだ。バブルだ。
西ドイツや英国が金融引き締めに動くなか、日本の利上げは1989年までずれ込む。
バブル崩壊と金融不安の末、ゼロインフレが定着し、円高も加速していく。日銀はゼロ金利政策や量的緩和など非伝統的な政策で試行錯誤する。財政も構造改革の試みは何度も挫折し、景気対策を重ねるうちに政府債務が膨張した。
円高のピークはリーマン危機後、東日本大震災が起きた2011年だ。円相場は10月末、1ドル=75円32銭と戦後最高値を記録した。日銀無策の大合唱は「最終兵器」を生み出す。
デフレ脱却を公約した第2次安倍晋三政権下で日銀総裁に指名された黒田東彦氏による「異次元緩和」だ。これまでの常識を覆す大規模緩和で、国債発行残高の半分を買い取った。当初目標とした2年で2%の物価上昇は果たせず、異次元緩和の解除にこぎつけたのは海外発のインフレ圧力が強まり、10年間に及ぶ黒田時代が終わったあとの24年のことだった・・・