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行政-社会

被災地で考える公共哲学・その2

被災地でいろいろ見聞きして、考えたジレンマを、紹介します。既に、新聞などでも、取り上げられている事例です。

(支援物資と地元商店)
被災地には、全国や世界から、たくさんの支援物資が届けられました。これはありがたいことです。ところが、児童生徒に、ノートや鉛筆がたくさん配られたので、地元の文房具屋さんは、商売あがったりになりました。同様に、スポーツ用品店や衣料品店も、売上げが大きく落ち込んでいるところもあるとのことです。
さて、このような場合、あなたが、まだたくさんの支援物資を保管している市役所やNPOの責任者だったら、どうしますか。

(被災者と支援ボランティア)
まだ初期の頃の話です。体育館に避難された人たちを支援するために、たくさんのボランティアが駆けつけました。避難所での物資の搬送と配分、炊き出しなどの作業をしてくれました。一生懸命汗を流しているボランティアの横で、避難者の何人かは、暇をもてあましていたという例が、あったそうです。もちろん、避難者の多くは、心身ともに疲れておられます。しかし、日が経つと元気な避難者もおられ、支援に行った人の中には、釈然としない人もいたとのことです。
さて、あなたがその場にいる支援者なら、どうしますか。

被災地で考える公共哲学

古くなりましたが、8月9日の朝日新聞オピニオン欄で、多田欣一岩手県住田町長のインタビューが載っていました。6月下旬から、被災者を対象とした東北地方の高速道路無料化が実施されました。無料通行には、被災証明書が必要です。住民の求めに応じて、停電や断水だけでも被災証明を出し、全世帯に発行する市町村もでました。その中で、住田町は岩手県内で唯一、「停電だけでは被災証明を出さない」方針を貫きました。以下、町長の発言です。

・・停電は被災ではない、という認識ではありません。ハウス栽培の農家などでは大きな物的被害がでますから当然、被災したことになる。ただ、停電が物的な被害に直結するとは限りません。住田町では、物的な被害があった場合は被災証明や罹災証明を出しますが、それ以外は基本的に証明書は発行しないという立場です。
国が東北の高速道路無料化を制度化したのは、大きな被害を受けた人の復興支援という趣旨のはずです。津波ですべてを流された人と、半日停電しただけで物的被害もない人が、同じレベルで復興支援の恩恵を受けるのは、本当に正しいのかと考えました・・

(同じように停電したのに、住田町だけ出さないのは不公平ではないですか、との問いに対して)
・・今回、無料化された区間は、東北自動車道をはじめ大半が内陸部です。大きな被害を受けた沿岸部の人は、あまり利用することがない。私が公務で高速道路を利用する回数は、1年に3~5回くらいですよ。本当に被災して困っている人は、ほとんど利用せず、わずかな被害しかなかった内陸部の人たちが無料で頻繁に利用している。それはかえって不公平ではないのか・・

(被災証明によく似たものに、罹災証明書があります。これは内閣府に基準があります。これによって、支援が受けられる場合もあります。しかし、被災証明書は、各自治体の裁量に任せられていて、それぞれの市町村で基準が違います。
被災証明にも、国の指針があった方がいいと考えますか、という問いに対しては)
・・それは違うと思います。こんなときこそ、自治体がそれぞれの良識で判断すべきでした。右へならえで全世帯に被災証明を出せば、国の役人に「やはり市町村には任せられない」と言われてしまう。もう少し頑張ってほしかったという思いはあります・・

ごく一部を紹介しました。あなたは、どう考えますか。マイケル・サンデル教授になって、考えてみてください。

日本社会、信頼感の欠如?

8月17日の日経新聞経済教室、ビル・エモットさんの「信頼と連帯感取り戻せ」から。
・・経済学とは、単に統計や方程式を扱う学問ではなく、根本的には人間の行動を研究する学問である。そして人間の行動では、心理的な要素が重要な役割を果たす・・
日本経済、いや東北の経済でさえ、東日本大震災で長期的に影響を被ると予想すべき理由は何もない。問題は、この「長期的」という概念である。この言葉は漠然としているが、重要な意味をはらんでいる。
英国が生んだ20世紀で最も著名な経済学者ケインズは、英国経済は30年代の大恐慌から「長期的には」立ち直るだろうと述べた批判論者に対し、「長期的にはわれわれは皆死んでいる」と答えた。言い換えれば、人の一生は短期間で終わると述べたのである。人間にとっては、数年かせいぜい10年の単位で短期的に起きることの方が、長期的に起きることよりも重要になる・・
(経済の回復について)ともかくそれは、人間心理と、そして国から市町村にいたる共同体の両方にまつわる問題となるだろう。
なぜ心理的かと言えば、震災後初の景気回復を経てから日本がたどる道のりでは、信頼感が決定的な要因となるからである。投資に対する企業の信頼感、将来に対する家計の信頼感である。そしてなぜ共同体かといえば、望ましい未来の実現に向けて何をすべきかの決定は、国か地方かを問わず、共同体全体で醸成されるコンセンサス(合意)の度合いに左右されるからである。そしてこの決定は、信頼感にも影響を及ぼす。
日本で政治が混迷しているのは、このコンセンサスと共同体の連帯感の欠如が原因である・・
大震災に関しては、国民は深い同情の念を共有している。だが、これから何をすべきかについて、何らかの強い感情が共有されているようには見えない・・

ごく一部を紹介しました。原文をお読みください。
私は、日本社会全体の信頼感が薄くなったとは、考えません。政治と経済について、うまく行っている時は国民は信頼する、うまく行っていない時は信頼しない、ということでしょう。学校や教師に対しても、同じです。古人曰く「金の切れ目が縁の切れ目」「苦しい時に分かる真の友」・・。
しかし、その信頼が薄くなると、社会や経済がうまく回らなくなり、さらに信頼がなくなるという悪循環に陥ります。もっとも、「信頼していない」という質問と答が成り立つのは、一定の信頼があるからです。全く信頼していないなら、そのような問いと答は成り立ちません。

社会とは何か、社会学とは何か

突然気が向いて、盛山和夫『社会学とは何か―意味世界への探求』(2011年、ミネルヴァ書房)を読みました。制度や秩序とは何か、社会科学での客観性とは何か。長年悩んでいました。その回答が書かれているのではないかと思ったのです。この本はわかりやすく、かなり答をもらいました。
先生はあとがきに、次のような趣旨のことを書いておられます。
大学の卒業論文で「階級とは何か」に取り組んだが、挫折に終わった。「階級概念をどう定義すべきか」という問いが解けなかっただけでなく、解ける見通しさえ立たなかった。
・・今では、この挫折の理由は明らかである。なんといっても最大の理由は、「階級概念をどう定義すべきか」という問いは、「階級」が客観的に実在しているという前提のもとではじめて意味をもつ問いであるのに対して、実際のところ、「階級」はけっして通常の意味で客観的な実在ではないということである。今ふうにいえば、「階級」とは構築されたものなのだ・・
そして、「社会制度とは、経験的な実在ではなくて理念的な実在である」という考えにいたった。

社会学の対象となるもの(社会)は、各人の主観的な意味世界の了解から成り立っていること。そして、社会学における客観性についての考え方が、著名な学者の歴史をたどることで、わかりやすく説明されていました。社会学が問題を立てる段階で、単に「経験的」でなく「規範的」であることも。

もっとも欲を言えば、では次に社会と社会学はどの方向に、あるいはどのような方法で進めばよいかは、書かれていません。はしがきには、次のようなことも書かれています。
・・19世紀の半ばに創設され、20世紀の初めに確立した社会学は、その時代の先進産業社会の課題を引き受ける形で発展してきた。近代化や産業化、あるいは階級や社会変動が社会学の大きなテーマであったのはそのためである。
しかし、1970年代くらいを境に、現代社会の課題に重要な変化が起こった。貧困や階級の問題が大きく後退し、そのかわりに、環境、ジェンダー、マイノリティ文化などの問題が新しく重大な関心事となっていった。それに加えて、多くの先進社会では、少子高齢化、社会保障制度の持続可能性、若年労働者の失業など、それまでの産業化のプロセスのなかでは存在しなかったかあるいは一次的にしか存在しなかったような問題に、恒常的に直面することになったのである。
こうした時代の変化をうけて、社会学の研究テーマは多様化し、分散し、拡散していった。それは一方では新しく、革新的で、創造的な探求の広範な展開を意味していた。しかし他方では、社会学のアイデンティティの拡散であり、伝統的な社会学とのつながりの希薄化であり、学問的共同性の弱まりを意味することになってしまったのである・・
・・1970年代以降の社会学の混迷には、それまで無意識のうちに前提とされていた「社会」の観念が壊れてきたことが無視できない背景としてある。端的に言って、「客観的に実在する社会」というものが前提されていたのであるが、その前提が崩れてしまった。それによって、「客観的に実在する社会」を対象とする経験科学としての「社会学」という構図が解体してしまったのである・・

その関連で言えば、東大出版会PR誌『UP』5月号に、盛山先生が「近代、理論、そして多元性―戦後日本社会学の世代論的素描」を書いておられました。これは東大出版会60年を記念して、各学問分野で「60年を読む」というシリーズの一つです。4月号は地球科学について、木村学先生の「回顧 地球科学革命の世紀」でした。プレートテクトニクス理論が、簡単には受け入れられなかった歴史が紹介されていました。

日本社会型雇用とリスク意識

リスク論を勉強する過程で、山岸俊男、メアリー・ブリントン著『リスクに背を向ける日本人』(2010年、講談社現代新書)が、参考になりました。いくつか紹介します(この仕事に就く前に読んで、放ってありました。忘れないように書いておきます)。

雇用の安心には二つの形がある。一つは終身雇用型、もう一つは再雇用のチャンスがあること。すなわち、日本での雇用の安心は、企業に就職し定年まで雇用が保障されることで、雇用の安定とは、首を切らないこと。雇用不安は非正規雇用が増えるからで、正規雇用にして簡単に首を切れないようにすることが安心。他方、北欧は、会社にしがみつくのではなく、失業者に訓練の機会を与えて、より生産性の高い産業で再雇用されるように支援するやり方。

アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッター教授が唱えた「ウイークタイズ(弱い結びつき)」。家族や親しい友人などに代表されるストロングタイズ(強い結びつき)から得られる情報は、つながっている人たちの輪が限られているので、すでに自分も知っている情報と変わり映えがしない。しかし、それほど親しくない知人からは、自分が知らない情報を得られる可能性が高い。

「空気が読めない」=KYという言葉が流行った。これは、自分の意見を発信することで、まわりの人たちを変えていこうという発想がないことを意味いしている。まわりの人たちを変えていこうというんじゃなく、まわりの人たちから受け入れられているかどうかにだけに目が向いてしまっている。場の空気を乱さないよう、まわりの人たちが何を考えているのかを予想して、そうした考えに自分を合わせるためのコミュニケーションに気をとられてしまう。
終身雇用制が確立している日本では、今の会社を首になった人は、別の会社では簡単に雇ってもらえない。だから、今の会社の仲間や上役から嫌われないようにするのが、無難な行動原理。とりあえずそういう行動をとると、本当に欲しいものを手に入れることができなくなるコストがあるが、まわりの人からつまはじきにされるというもっと大きなコストは避けることができる。アメリカ人にとっては、今まわりにいる人に嫌われても、別のチャンスがあるから、自分の意見を主張する。
アメリカにも「空気の支配」はある。ケネディ大統領の最初で最大の失敗であるキューバのピッグス湾上陸作戦。CIAの甘い見通しをもとにした強硬意見がその場の「空気」を作りだし、冷静な判断が抑えられてしまった。