カテゴリー別アーカイブ: 社会

社会

容器包装プラスチック

6月28日の朝日新聞、「環境 転換点2030 脱・プラ社会:2」は「容器包装の再資源化、道半ば」でした。そこに、「廃プラスチック、再資源化の流れ」の図がついてます。詳しくは、原文を読んでいただくとして。

それ(プラスチック循環利用協会)によると、2018年の廃プラスチック総排出量は891万トンです。ちなみに、最近の米の生産量は、800万トンを下回っています。私たちが食べているお米より、たくさんのプラスチックが捨てられています。そう考えると、恐ろしいことです。
再生利用されているのは208万トン、23%でしかありません。後は、燃やしたり埋め立てられています。
工場や企業から出る分が462万トンです。家庭から出る分が429万トン、うち容器包装が336万トンです。
使い捨ての容器や包装が、圧倒的に多いのです。スーパーマーケットやコンビニでものを買ったり、持ち帰り食品を買うときに入れてもらうレジ袋は、便利ですよね。これらは、使い捨てだから便利なのです。しかし、ゴミ回収に出されず、捨てられた容器や袋は、街、野山、そして海を汚しています。

連載「公共を創る」第46回で、レジ袋の便利さと使い捨てゴミになることを指摘しました。そこでは、レジ袋の使用量を40万トンと紹介しました。いろいろ調べたのですが、正確な数字が出てこなかったのです。ひとまずこの数字を信頼すると、家庭から出る廃プラスチックの1割がレジ袋です。
7月1日から、プラスチック製レジ袋が有料になりました。

授業時間は短縮できるか、2

授業時間は短縮できるか」の続きです。

阿部彩さん(東京都立大学教授)の発言
・・・私は、コロナ禍の前から「夏休みは絶対に短くするべきだ」と主張してきました。
決して「もっと勉強時間を確保すべきだ」という理由ではありません。長期の休みは、家庭間の格差が顕著に表れて、子どもたちの心身に大きな影響を及ぼすという理由からです。

いまは共働き世帯が主流なので、夏休みは一日中、留守番という子どももたくさんいます。親の経済状況によって旅行やスポーツ合宿といった体験ができるか、給食がなくても毎日きちんと栄養が取れるか、なども左右されます。
いまは虐待や貧困など様々な事情を抱える家庭が増えています。国や自治体は自治体ごとの格差や、学校単位で生まれた格差には敏感ですが、なぜか家庭間の格差には関心が低く、取り組みも不十分でした。

そんな行政の無関心さが響いたのが、今回のコロナ禍における一斉休校要請です。
苦しい状況にある家庭の支援に動いてきた居場所事業も軒並みストップしました。ドリルを買えたか、親が隣で学習指導ができたか、昼食を提供できたか……。いろいろな場面での経済格差が、休校の前と後で積み重なり、家庭間格差は確実に広がってしまったように思います。
私は、一斉休校は、家庭の事情に対する行政の無配慮から生じた「人災」だったと思います。被害者は「学校に行かない」という道しかなかった子どもたちです・・・

ここには、知識を学ぶという授業以外の、学校の機能が見えます。

授業時間は短縮できるか

6月26日の朝日新聞オピニオン欄「夏休みの短縮、必要?」から。
・・・ 「授業ができなかったからといって、夏休みを短くするのは反対」。5月26日付本紙で、元小学校教員・森田太郎さんの意見を掲載したところ、メールで寄せられた反響は真っ二つに割れました。工夫次第で授業時数は減らせるという森田さんの意見に対し、同じ教員経験者の多くは反対意見でした。ゆっくり学んで理解していく子には、授業で時間をかけることこそ必要だというものです。一方、子どもを持つ親は賛成意見が目立ちました・・・
その背景には、コロナウイルスによる授業の遅れを取り戻すという観点だけでなく、学校教育の在り方についての議論があるようです。

・・・十数年前、教育界で「七五三」という言葉がはやりました。小学生の7割、中学生の5割、高校生の3割しか学習内容を理解していない実態を示した言葉として、多くの教員たちは同意していました。
教師の指導技術が優れていれば、ある程度は時短授業が可能です。しかし、漢字力や計算力など、記憶しなければならない基礎学力を、長い時間をかけることで身に付けていく子も一定数、いるのです・・・

・・・久しぶりの登校日も、学校からの連絡は「友達と遊ぶ約束をしていた子がいるが遊ばせないで」「名札をしっかりつけて」と注意ばかり。そして、夏休みの短縮です。子どもの気持ちを一切考えず、アリバイづくりをしているようにしか思えません。子どもの学習は、授業数だけで決まるものではありません。
もちろん、夏の間も希望する子に補習をするのはいいと思います。一律にやらなくてもいいのではないか、ということです。
もともと、日本の義務教育は、進級の基準がなく、皆勤賞万歳の文化です。これを機にもっと通学の自由度を高くし、どのような状態になれば進級できるのか、基準を明白にすべきだと思います。
もう、子どもは全員黙って学校に行けばいい、という時代は終わったと思います・・・

工藤勇一さん(横浜創英中学・高校校長、前麹町中学校長)
・・・現在、多くの学校がコロナ禍の学習の遅れを取り戻すため、たくさんの宿題を出したり、夏休みを大幅に短縮したりしています。確かに必要な対応の一つかもしれませんが、学習時間を確保することだけに躍起になってしまっては、子どもたちの自ら学ぼうとする力をますます奪ってしまうように思います。
本来、学校は子どもたちが社会を主体的によりよく生きていくためにあるはずで、子どもは自ら主体的になって学んでこそ、最も成長を遂げます。子どもの自律を重視する授業をすれば、たとえ時間が短くても、子どもはきちんと理解できます・・・
・・・長らく日本の教育は、時間をかければ、学力が上がると信じられてきました。決まった時間、授業を受けたら次の項目や学年に進むという「履修主義」が背景にあります。
これからの時代は、身についたら次へ進む「習得主義」へとかじを切るべきです。今回の災厄を、日本の教育のあり方を変えるきっかけにできるのでは、と考えます・・・
この項続く

文化人類学の新しい流れ

6月22日の朝日新聞に「文化人類学、より身近に AI・高齢者ケア・芸術…対象広がる」が載っていました。

学生時代に、文化人類学・民俗学・民族学に興味を持ちました。こんな学問分野があるのだと。ただしそれまでの文化人類学は、先進国の研究者が発展途上社会や未開社会を調査するものでした。
京都大学人文研が、ヨーロッパを調査対象とした本(名前が思い出せません)は、「そうか、ヨーロッパ社会も調査対象になるんだ」「けっこう遅れた田舎もある」「ヨーロッパ中心の見方以外もある」と目を開かれました。日本文化を研究するものもあり、面白かったです。(加藤秀俊先生梅棹忠夫先生

ところが、先進国から途上国を研究する手法は、行き詰まりました。文化人類学が、だんだん輝きを失っていきました。この新聞記事は、その反省から、新しい分野や手法に転換していることを紹介しています。
そうなっていたのですね。ただし、何でも学問対象となると発散して、門外漢からは学問像がわかりにくくなったように思います。

インターネット書き込みが加速する悪しき個人主義

6月22日の読売新聞文化面、「コロナ禍で進む 悪しき個人主義…テラハ問題の背景」から。

・・・SNSの発言は過激化する傾向があるが、與那覇氏は、コロナ禍特有の事情もあると指摘する。個別の人間関係を面倒だと感じ、相手の事情を勘案せず、オンラインでコミュニケーションを済ませようとする元々の欲求が強まったことだ。
新型コロナの被害が日本は相対的に少ないことで、他者と触れあわないことは良いことだとの思い込みが加速したとみる。
「世間でネットの可能性や楽しさばかりが強調されれば、外出できずにストレスを抱えた人の中には、他者への攻撃を楽しんでしまう輩やからが出てくるのは当然だ」

人間関係を回避しようとする背景には、各人が信じたいことを信じればいいとする価値相対主義や、それぞれの境遇の良しあしは自己責任と捉える「日本型の個人主義」があるという。
個人はバラバラなだけで、絶対的な価値を持つことで得られる安心感がない。だから「たまたま」成功した人に対し、「なんでこいつが」などと、複雑な感情がわきやすいという。それは何かのきっかけで、集中攻撃に転じやすい・・・